壊れるまで、モノを使うということ
起きたら、妻に相談された。
保温ポットの、中ブタの、お湯につかるプラスチックのところが、粉状に、ほろほろと落ち始め、手にはパウダー状の粉がついて、ショックだった。
もう、これはダメになったから、どうしようか。
妻は、もっと早く言いたかったのだけど、私が、ちゃんと起きてくるまで待ってくれたようだった。その話の勢いにびっくりしたのだけど、どうやら、それくらいショックだったようだ。
いつからだろう。
気がつかないうちに、プラスチックの粉を飲んじゃったんじゃないか。
妻は、そんな不安で、おたおたしたけど、このままの気持ちを、私に伝えたらマズいと思って、少し落ち着いてから話してくれたというが、まだ、言葉に、かなり強く動揺の気配があった。
壊れてしまったら、買い換えるのに、お金もかかるし。
それでも、妻は、毎日、お湯を入れて使ってきたポットに、そっと手をそえて、ありがとう、という気持ちにもなったらしい。
このポットは、ご近所の方から、一度も使ってないまま、長年保管していて、捨てる予定だったのを、いただいたものだった。シンプルな形やラインの色のとりあわせに、昭和っぽい良さがあって、愛着を感じていたのだけど、2年足らずで、壊れてしまった。未使用とはいっても、もしかしたら昭和の製品だったかもしれず、だから、ただ保管していても、劣化が進んでいたのかもしれない。
昨年は、iPodも壊れた。
12年くらい使ってきた。移動の時に音楽や、食器を洗っている時にポッドキャストを聞いたりしていて、ある日、普通に使おうとしたら、小さい画面は、ただ黒いままで、何の光も発しなくなった。今まで、こういう状態で、いろいろ押して復活したことが何度かあったので、その操作を繰り返したが、小さな画面に、二度と光が宿ることはなかった。
あ、息絶えた、と思った。
特に何の前触れもなく、その前に使った時も、同じように使えたはずだったのに、秘かに破壊が進んでいた、ということなのかもしれない。
10年以上使えば、いつ壊れてもおかしくなかったのだけど、それくらい年数がたったら、おかしな感覚だけど、もう壊れることを考えなくなっていた。
iPodを買った時は、当初希望していたシルバーがなくて、黒を買った。自分にとっては、大金で、「盗まれたら大変ですから」という店員さんのススメのままに、保険まで入った。2007年当時は最新の製品だったと思う。重量感は意外とあったが、小さいものだから、おそるおそる、そっと持っていた記憶がある。あれから、iPhoneが出て、スマホが当たり前になり、iPodを見かけること自体が少なくなった。私は携帯もスマホも持つことがなかったせいもあり、何千曲も平気で収録してくれて、聴かせてくれる機械はありがたかった。イヤフォンは何度も買い替えた。
介護を続ける日々の中で、母が亡くなった年に買ったiPodが、義母が亡くなってから少したって、壊れた。そこに意味はなく、ただの偶然だけど、そこに10年を超える年数があって、出かけない時は、引き出しにただ入れていて、使う時に取り出す、という道具としての扱いしかしてこなかったけど、壊れた、というよりも、息絶えた、というような終わりを迎えて、やっぱり、ちょっとショックだった。微妙な動揺もあった。
これからどうしようと思い、今度は、家にあるミニコンポに合うウォークマンを買おうとしたら、ミニコンポが古くなったせいで、そのコンポで確実に作動するウォークマンがなくなっていたことを、メーカーにメールで問い合わせをして、知った。壊れていなくても、すぐに古くなってしまう。なんだか徒労感があって、それから、音楽を聞く機械を買えていない。
保温ポットが、微妙な壊れ方をして、妻につられたせいか、私にもショックはあった。
この気持ちは、比較するのは不謹慎だけど、誰かが亡くなった感じと、ショックの大きさはまったく違うとしても、質は少し似ているようにも思えた。特に、自分が直接、触れるように使ってきたモノに対しては、そんな感情が起きやすいのかもしれない。
今回は、予兆なく突然壊れたショックだった。
今まで経験したモノの壊れ方としては、そろそろマズいかも、と思いながらも使い続けて、持ち直して、もう大丈夫ではないか、と思い、そうした不調も忘れた頃に、突然、壊れるショックもある。あれは、機械に罪はないのに、なんだよー、と責める気持ちにもなる。
何十年も前、たとえば、バブルの頃、消費は美徳みたいなことが、本当に本気で唱えられて、それが社会全体で同意されてきた時代が、確かにあった。使い捨て、ということが便利だったし、正義だったりする感じもあったと思う。それは、モノを大事に使う、といったことを、貧乏くさいとして退ける気配もあったので、それに関しては個人的に、反発を感じていた。
だけど、今回、モノが壊れて、改めて思ったのは、消費は美徳などと唱えて、まだ使える物まで、次々と買い替えていったのは、ただ、新しい物が欲しい、といった欲望だけでなかったのではないか、ということだった。
人が亡くなる時の激しい動揺に、ほんの少しだけ似ている、モノが壊れるショックに立ち会いたくなかった。そんな理由も秘かにあったのではないか。その気持ちになりたくなくて、壊れる前に、息絶える前に、まだ使えるけど、次のモノを買うことを繰り返し続けていたのかもしれない。
そんなどこか考え過ぎかもしれないことを思ったのは、やっぱりモノが、それも予測もしてない時に、突然壊れたことが、ショックだったのだと思う。
今は、モノを大事に使う。長く使うということが、復活しつつある感じもある。
自分にとっては古くなっても、サイトを使って、他の人に売ったり譲ったり、という人も増えてきたようだし、壊れたばかりの保温ポットも、サイトは使っていないが、人から手渡されて、家で使ってきたものだった。
今は、物理的に壊れていなくても、コンピューターのような機械は、外側のシステムが進歩すると、自動的に使いにくくなったりする、という目に見えない「壊れ方」をするようにもなったから、モノが使えなくなる時の感情の種類は、増えているかもしれない。
保温ポットは、毎日使うモノだから、今は、電気ポットを応急措置として使っているが、妻と相談して、壊れた日の夜中に、新しい保温ポットを注文した。また新しいモノがくる。宅配便が来た時は、なるべく人と人との接触を避けるようにして、渡してくれるだろうし、こちらも、そうしたことに気をつけて、受け取るから、またモノに対しての気持ちは、微妙に変わってくるのかもしれない。
(そのあと、ポットが届きました。その時のことは、ここをクリックしてもらえると、読んでいただけます)。
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