言葉を考える⑦「普通に、おいしいです」の誠実さ
何かを食べた時の感想として「普通に、おいしいです」と言われ始めたのが、いつ頃だったのかは、はっきりと覚えていない。だけど、使われ始めた頃には、特に年長者からの「普通って、なんだ?」という反発があったのも確かだったと思う。それが、時間がたつことで、今は、この「普通に、おいしい」という言い方も定着しつつあると思う。
そして、今は、「すごくおいしい>普通に、おいしい>おいしい」といった順番になっているように感じる。それは、カレーの「辛口>中辛>甘口」の辛さの程度と似ていて、微妙な分かりにくさはあるものの、明らかにランクがある、ということなのだと思う。
(もし、ここから違っていたら、すみませんが、それでも、話を進めます)。
「特殊さ」への反応としての「普通」
個人的には情報源が限られていて、テレビなどを見ていて思ったりすることも多いのだけど、バブル以降は、経済的には沈滞しているといっても、食文化は、ある種の発展はずっと続けているように思う。
そして、消費者は、あきっぽいのが基本でもあるので、様々な料理が登場する。昔は、たとえばアイスクリームの天ぷらが珍しいくらいだったのが、そこから、すごく変わったものが出続けてきて、それは、人の興味をひく、という点から見れば、必然かもしれない。
たとえば、といっても、恥ずかしながらそんなに知らないものの、食欲をそそらない青い色のカレーライスなどがあって、それを食べる、いわゆる食レボの際、初めてであれば、どこかで気持ちの構えもあるはずで、それで食べると、おいしいカレーだったりすれば、感想としては、「…普通においしいです」という言葉になっても、おかしくない。
それは、推測だけど、もう少し長い文章にすれば、「うわ、こういう色のカレーは初めて見た。青いカレーって、わざと食欲をそそらない色にしているんだ。ちょっと嫌かも。でも、食べないと。お、食べると、おいしいぞ。これまで食べてきたおいしいカレーと同じようにおいしい。これは、色がこれじゃなかったら、もっとおいしさを普通に味わえたのに。今まで食べてきたおいしいカレーと変わらずにおいしい。おいしいカレーと同じように……普通においしい」といったような、意外と複雑な思考を通った上での「普通」という言葉の選択のようにも思える。
だけど、それは「特殊」な料理が増えることで、それに対しての反応としての「普通に」という表現ではないだろうか。それは、どこか気を遣う、という誠実さでもありそうだし、一度、その外見や味の「特殊さ」を外してみて、という意識上の作業が入るから、普通に戻る、という評価の上昇ともいえる。
「誠実さ」の現れとしての「普通」
たとえば、何かを食べた時に、素直に「とてもおいしい」のであれば、そのまま、「とても、おいしい」もしくは「すごく、うまい」といった表現を、ためらいなく使えるはずだ。
ただ、多くの場合は、「おいしい」という状態であっても、感激するほど、おいしいことはそんなにない。
だけど、食べたものが「確かにおいしい。しかも、いつも食べている同じメニューよりはおいしい。だけど、ものすごくおいしい、まではいかない」という場合には、自分の中の感覚と誠意に照らし合わせて、「…普通に…おいしい…」と言うしかなくなりそうだ。
そういう意味では、お世辞として、おおげさに、「すごく、おいしい」というような言い方が、社交辞令ととられるよりも、今は、おおげさにいえば「うそつき」ととられかねなくなっているから、「すごく、おいしい」が使えにくくなっているように感じる。だけど、明らかに標準よりは上だから、誠実さの現れとして、「普通に」という言葉が選択されているようにも思う。
それは、人の言葉に含まれる「うそ」に対して、厳しくなる一方の、時代の流れと呼応しているという見方もできる。だから、この場合に「普通」を使う「誠実さ」は、批判への防御としての「誠実さ」ということになるかもしれない。
「バランスの良さ」への「普通に、すごいです」
味覚以外に、「普通に」という表現を多く見るようになったのは、誰かが何かしらのパフォーマンスをして、その評価として、少しの沈黙のあとに「…普通に、すごいです…」という表現がされる場面を、何回も、どこかで見た記憶がある。
それは、そのパフォーマンスに対しての表現の言葉が足りない、という言い方もできるのかもしれないし、見ている側が、なにが「すごい」のかが分かっていないだけ、という可能性もある。
だけど、いろいろな影響なのか、今は何かしらのパフォーマンスをする人でも、短い時間でのアピールが必要になってきているから、ある意味、「特殊」な瞬間を作り出すことが多いように思う。そういうタイプの人であれば、その「特殊なすごさ」に対して、評価をすれば、それでひとまとまりの時間にはなる。
だけど、こんな場合もある。
その人のパフォーマンスが、明らかにすごい。
それは、わかる。
だけど、すぐに目をひくような「特殊なすごさ」がなければ、言葉にはつまるけれど、でも、見るからにすごい、というのではなく、欠点がない凄さなのは、分かる。そして、本来は、達人といわれるような人たちは、そういう「バランスのよさ」が特徴であることが多く、ということは、特徴が言葉にしづらく、それで、「バランスのよさ」への評価として「普通に、すごい」が使われているようにも思う。
さらには、「普通に、すごい」も、もしかしたら、「すごい < 普通に、すごい < とんでもなく、すごい」というランクの中の表現なのかもしれない。
「普通」の価値観の変化
今は、使われる頻度が増えてきているように感じるから、「普通に、おいしい」に対しての反発は減ってきているようだけど、よく聞くようになった頃は、特に言われた側が、ある程度の年齢の場合には、「なに?」と、ちょっと怒りをふくんだ表情を見せることもあったように感じる。
その一番の原因は、「普通」の価値観の違いではないだろうか。
漫画「クレヨンしんちゃん」の父、野原ひろしは、30代半ば。都内の会社に勤務、埼玉県春日部に、持ち家があり、妻と子供ひとり(しんのすけ)と暮らしている、という設定で、連載が始まったのは、まだバブルの気配が濃い1990年だったから、野原ひろしの見られ方は、少なくともエリートではなかった。「普通」の存在として描かれていたはずだった。
だけど、時代が進んで、21世紀に入ったあたりから、どこで読んだか忘れてしまって申し訳ないけれど、野原ひろしの評価が上がっているという話を聞くようになった。
非正規社員率が上がり続け、それは、自ら選ぶのではなく、それしか道がないという選択になりつつあるようなので、正社員で30代で持ち家で妻が専業主婦で子供が一人いて暮らしていける「野原ひろし」は、すごい、というようなことが言われ始めていると聞いたのが、10年くらい前だったように思うのだけど、それは「普通」の価値観の変化をあらわすような現象だと思う。
今の50代以上の「普通」は、夫が正社員で、妻が専業主婦で、子供が2人で、という政府の唱える「標準家庭」だと思っている人が、個人的な実感として、かなり多い。
だけど、長い不況によって、日本の経済が下降傾向がずっと続いていて、生活していると、実感としては、どんどん貧しくなっていると思える現在では、その「標準家庭」(バブルの頃までの普通の家庭)は、まるで「エリート」のように思えても不思議ではない。
「普通」は、おそらく年齢が若いほど、「評価の高い」言葉になっている可能性もある。だけど、年齢が高いほど「普通」は、「評価が低い」言葉だと思っているようだから、そのギャップのせいで、「普通に、おいしい」という場面で、微妙な対立が生まれていたかもしれない。
「普通」をめぐる深刻な「対立」
この「普通」の価値観の違いは、違う場面では、さらに深刻な対立を生むこともある。
たとえば、50代の親世代と、20代の子供世代では、「普通」への価値観が大きく違うことが多い、と思う。
親は、子供に、せめて「普通に」生きていって欲しい、と願う。それは、少なくとも企業の「正社員」だったりすることもあるのだけど、現在の「非正規社員」が増えていたり、ブラック企業が少なくなかったりする現状で、以前の「普通」は明らかに手に入りにくくなっているのに、それは、親世代には、自分の経験から見ても、理解しがたい。だから、善意で、その「普通」を押し付けてしまい、子供世代が苦しむことがありえる。
それは、この何十年かという、短い期間で、社会の状況が、急速に、(しかも下方に)変化したせいもあるのだと思う。社会や世の中が変わったとしても、人の意識はなかなか変わらない、というのが一般的だと思う。それも社会の変化が、上昇だったら、より若い世代に恩恵が増えるから、対立にはなりにくのに、戦争時をのぞけば、おそらくは初めての下向きの成長に適応するのは、とても難しいはずだ。
そろそろ「普通」の、今のリアルな「標準」は、少し考えてもいいのかもしれない。それが新しい縛りにならないように気をつけながら。というよりは、「普通」という基準が必要かどうか、を考えるべき時に来ているのかもしれない。
「普通」と「個性的」
「普通」は、程度を表す言葉だけでなく、おそらくバブル期までは、「普通」は「平凡」で、つまらないもので、「個性的」であることが「正しい」時代が続いていたように思う。それは、目立ったほうが善といってもいいほどの時代で、だから、そこでは「普通」はうもれてしまう。大げさに言えば、「悪いこと」でさえあった。
ただ、もちろん、それは、若い時だけで、多くは、年齢を重ねると落ち着いていく、という前提もあって、さらには、落ち着いても、それなりの生活が送れる、という「保証」があってこそのこと、だったとは思う。
1990年生まれの、この本の著者は、他の人の話として、こうしたことを書いている。ただ、これを同世代の例としてあげている、ということは、この著者も共感している可能性が高い。
NPO法人ライフリンク代表の清水康之は、ある就活生が、「自分達は小さい頃から周りと同じようにしなさいと言われ、自分の存在を消すように努力して生きてきたのに、いきなり就活で『あなた』を問われて驚いた」と語ったことを述べている。
明らかに「個性的」であることの価値は、時代が進むほど、少なくとも普段の生活では、重要視されることはなくなってきた印象がある。それよりも、「自分の存在を消す」ような「普通」は、ある意味では、都合もよく、現代では、目指すべきものであるのかもしれない。
そうであれば、何かを語る時に「普通」という形容詞を使うのは、もしかしたら若い世代ほど、かなり好意的である、ということになるのだと思う。だから、「普通に、すごいです」も、「普通に、おいしいです」も、あまり抵抗感なく使い、それらへの年長者の微妙な反発にあって、戸惑うという時代が続いていたのではないだろうか。
その微妙な対立は、だけど、これから先も完全に解消されるのは、難しいと思う。
1990年代初頭の「ジュリアナ」という場所で、お立ち台で、体のラインがはっきりと分かる、露出の多い服で自分を出していた時代と、2010年代の、ハロウィンというイベントで、コスプレという方法で、自分を隠しながらも目立たせるという時代では、価値観が違って当たり前だと思うからだった。
「普通」と「多数派」
ここからは、かなり推測が多くなってくるのだけど、どこかで、政治的にも多数派かと思うと、安心する、といったことを、若い世代が言っていて、それに対して、微妙な議論が起こっていたことが、数年前にあったと記憶している。
それは、ずっと政権与党が勝ち続ける論理みたいにも聞こえるから、反発を生む部分があっても仕方がない。だけど、大型電気店などで、スタッフの人がもっとも多く聞かれることが、昔も今も「どれが一番売れているのか?」だと、ラジオか何かで聞いた記憶があって、それは、なんとなく肯けることでもあるから、自分がどう思うのか?の前に「多数派」に属したい、という癖は、ずっと前から染み付いている、という言い方もできるのかもしれない。
でも、それは、個人的には、21世紀に入ってから特に、社会が少数派を切り捨てようとしていて、それに対して、それほどの反発が起こってない、という印象がある時代では、「多数派」に属するかどうかは、以前よりも、死活問題になっているように思う。だから、なにがなんでも「多数派」にいなければ、という思いになっても、それは自然なことだろう。
そういう時代では、「普通」の価値は、ずいぶんと上がっている。それだけ、全体が、いろいろな意味で下がったことで、結果的に「普通」が上がったとはいえ、世代によって、これだけ印象が違う言葉も珍しいのかもしれない。
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読書感想 『認められたい』 熊代亨 「承認欲求で悩むすべての人に」
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