「日本代表」が、「サッカー強豪国」になるには、何が足りないのか?を、W杯が終わった今、考えてみる。
「2022年サッカーワールドカップ」は、アルゼンチンの優勝で幕を閉じた。
ずっとこのタイトルに迫りながらも手が届かなかったメッシが、ワールドカップを、ようやく獲得できた大会としても、長く記憶されるのだと思う。
ベスト16の壁
同時に、日本代表は、ワールドカップでは初めて、2大会続けて、決勝トーナメントに進出した大会となった。
しかも、ドイツとスペインという、明らかに「サッカー強豪国」に対して、先制されながらも逆転勝ちをするという、W杯史上でも、あまり見られない結果によって、予選リーグを突破した。
それだけに当初から掲げられていた「ベスト8」という目標に届くかと思われたのだが、クロアチアの前にPK戦で、負けた。
また、「ベスト16の壁」を破ることはできなかったが、期待が高かっただけに、サポーターに落胆もあり、そして、改めて「何が足りないのか?」が本気で議論されるような空気にはなってきたのは感じる。
ワールドカップが終わった今、改めて、日本が「サッカー強豪国」になるのは、どうしたらいいのか?を、誰に頼まれたわけでもないけれど、考えてみたいと思えたほど、負けたとはいえ、日本代表の戦い方は、これまでとは違う景色を見せてくれたと思う。
このままではダメなのではないか
クロアチアを相手にPK戦で敗れたあと、情報強者とはいえない自分にも、日本のサッカーは、このままでは、これ以上、強くはなれないのではないか、という声がプレーヤーからも出てきているのを知った。
イングランドのプレミアムリーグでプレーをし、24歳と、次のW杯も出場可能な富安は、そんな言葉を残していた。
次のW杯こそ、日本代表の中心選手として活躍するのでは、と期待されている26歳の鎌田大地は、そんな話をしている。
富安と、鎌田。
次の日本代表でも、おそらくは中心になると思える20代のプレーヤーが口を揃えて、このままでは先がないことを話している。
それは、今大会が最後ではなく、今後、日本代表としてプレーする可能性が高いぷから、どうすれば、本当の「サッカー強豪国」になれるのかを、かなり切実に考えているはずだ。
富安は、サッカーだけではなく、日本の社会構造も含めて、鎌田は、サッカーのスタイルそのものの根本的な見直し、といった時間がかかるが、重要な視点を提示していると思う。
今のままではダメ、ということは共通しているように考えられるが、では、実際に戦ったプレーヤーたちが、身をもって感じた「サッカー強豪国になるために、足りないこと」とは、何なのだろうか?
ただのテレビ視聴者とはいえ、そのことを、もう少し具体的に考えてみたいと思ったのは、決勝が象徴するように、今回のワールドカップが素晴らしかったおかげもある。
メッシの言葉
その重い表情が象徴するように、これまでの10数年の代表歴の中で、メッシは、ワールドカップというタイトルがとれなかったことに対して、想像もしにくいほどの重いプレッシャーを感じてきたはずだ。
だけど、その目標が達成された今、代表引退を予測されていたメッシの口から出てきたのは、サッカーが大好きなこと。プレーを楽しんでいること。だった。
あれだけ、重圧の中でのプレーが続き、重い表情の印象が強かったメッシでさえ、いったんワールドカップの重荷から解放されれば、「サッカーの楽しさ」が顔をのぞかせるのが、改めて意外だった。
メッシの中に、「サッカーを楽しむこと」のベースがあってこそ、あの厳しい決勝戦も戦い抜けたのかもしれない。
サッカーを楽しむこと
サッカーの試合は、ゲームと言われている。サッカーをすることは、プレイする、と表現される。元々は、遊ぶという言葉だから、本来は楽しいことのはずだ。
そして、その「サッカーの楽しさ」がベースにあってこそ、そこから、ファイトしたり、クリエイティブが伸びていったり、ディスプリンが行き渡ったりして、それこそが、その国のサッカーのスタイルを確立することだし、それが「サッカー強豪国」になる、ということだと思う。
その国のサッカーのスタイルについては、後で考えるとして、まず、サッカーは楽しさから始まる、ということが、実は「サッカー強豪国」ほど大事にされているのではないか。
そんなことを思ったのは、今回のワールドカップでは、その「サッカーの楽しさ」がベースにあることが、戦いとして厳しくなっていくほど、目立ってきたように思ったせいだ。
決勝トーナメント1回戦で勝った後の、フランスのロッカールームの映像を見た。とてもはしゃいでいたし、楽しそうだった。あんなに楽しくサッカーをしている人間たちに、そう簡単に敵うわけはない。
ブラジル代表の、得点のあとのパフォーマンス。さまざまな批判もあるけれど、とても楽しそうに見えて、あの感じと、その前のクリエイティブなゴールと無関係とは思えない。
2022年のワールドカップで、想像以上の活躍を見せたモロッコは、強豪ポルトガルに勝った時も、印象的だったのは、特に攻撃をしている時に、楽しそうに見えたことだ。
ベースに「サッカーの楽しさ」がなければ、実は、サッカー強豪国になるのは難しいのではないか。そのベースがあってこそ、より高いレベルで戦うことができるのではないだろうか。
「日本サッカー」≒「ワーク」?
そんなことを改めて考えたのは、振り返れば、今回の日本のサッカーには、勝負に対しての切実さと凄さはあったものの、試合自体には、あまり楽しさを感じなかったからだ。
それは、「ゲーム」を「プレイ」するのではなく、どちらかといえば「ワーク」として取り組んでいるように見えてしまったからで、同時に対戦相手も、そうした「ワーク」に対応することになっていたようだった。
だから、勝敗を争うことが何より優先された試合になりすぎてしまい、勝負の凄さはあったものの、見ていても楽しさが少なく、それが、実は「ベスト16の壁」の要素になっているのではないかと、感じた。
「ワーク」は、それを極めたとしても、「ハードワーク」になるだけで、「プレイ」をベースとした「サッカー」を展開するチームには、永遠に敵わないではないか。
ベスト8より先、準々決勝から決勝までの「ゲーム」を見て、そんなことまで思ってしまった。
ブラジルのトレーニング
ブラジルのスーパースターが、鹿島にいた頃に、自分のジュニアの頃の話をしたことがあった。
おそらく日本で言えば、中学生くらいの頃、サッカーの練習をする場所が遠かったらしい。バスに乗って長いことかかったが、それでも、毎日行くのが楽しみだった、と語っていた。
サッカーの技術や体力などを向上させながら、それだけ、積極的に楽しめるような練習が、日本で行われているのだろうか。というよりも、それは、練習という言葉で語れないものかもしれない。
ドイツのコーチの言葉
かなり昔、国内で、海外のユースチームを招いて親善試合を行う、という企画があって、その頃は、ライターをしていたので取材をし、ドイツのユース世代のコーチに話を聞く機会があった。
当時、ドイツはゲルマン魂を備えていると言われ、先制されても逆転するようなタフさを持っていたから、その強い気持ちについても聞いたら、すぐに帰ってきた答えが、精神力を鍛えることはできない。選手が明日も練習に楽しく取り組めるようにするのがコーチの役目だ、だった。
本当の根
すでに誰が語っていたのかも忘れてしまったが、サッカーは、喉元にナイフを突きつけるような厳しさの中では、本当に強くなれない、といった言葉をどこかで聞いたことがある。
何かを身につけるときに、どうしても修練や反復練習、努力などが頭に浮かんでしまうけれど、考えたら、それは、私自身も日本で生まれて育ったから、そんな発想になるだけで、それが、世界共通ではなく、まして「サッカー強豪国」では、違っているのだと思う。
とても、シンプルな原則だけど、もともと、人間は楽しいことに、自分の最大の力を発揮できるのは誰もがわかっている。だけど、それは、厳しく指導し、身につけさせるよりも、とても難しく、さまざまな豊かさが、その背景にあるのは間違いない。
冒頭でも紹介した、日本代表の冨安が語っていた「本当の根」というのは、こうしたことと関係があるように思う。
社会構造の問題
海外へプロとして渡り、日常的にプレーしているプレーヤーたちも、多くの場合、日本での教育や社会の中で生きている時間があるはずだ。
そして、教育というのは、どうやら長く基本的なところで変わっていないようだ。
それぞれの違いを尊重するよりも、まずは同じ年齢の子どもを、教室という場所に集め、座らせ、一定の時間、主に教師が話すことを聞いて、学ばせる。
それは、明治以来、あまり変わらないシステムで、工業社会では有効に働いたものの、その後の時代の変化には、追いついていない、といった議論は、散々されてきたと思う。
詳細は、専門的が語っていること↑を参考にしていただきたいのだけど、どちらにしても「学ぶ楽しさ」からスタートすることがあり得なさそうな現状では、サッカーだけが「楽しむ」からスタートするのは難しそうなのは、誰もが共有できる感覚だと思う。
これは、単に教育だけではなく、社会構造の問題だとは思う。
今も、自由より規律が優先される学校教育。独創性が本当の意味で尊ばれない環境。強すぎる同調圧力。ここからは、ピッチ上で、自由な発想でプレーを続ける、世界的に優れたサッカープレーヤーが誕生するのは難しい。
当然だけど、まず何より、優れた個人がいないと、強いチームにはならない。
これは、日本社会が、失われた30年と言われ、新しいものを生み出さなくなってきたことと、おそらくはシンクロしているはずで、サッカーだけが、革新的な何かを生み出すことは難しい。
プレーヤーたちの力
そんな時代の中で、この20年以上の間、日本代表がW杯に出場を続け、今回のように「ベスト8」を狙う、という目標を掲げる場所まで来られたのは、特に21世紀に入って、日本国内だけでなく、ドイツ、イングランド、スペイン、イタリア、オランダなど、「サッカー強豪国」のプロとしてプレーを続け、そこで、戦えるサッカーを身につけた個々人のプレーヤーたちが増えてきたおかげだと思う。
それがなかったら、おそらくは、W杯連続出場自体が、途絶えていたはずだ。
現時点では、代表を構成するそれぞれのプレーヤーが、個別にレベルアップすることで、なんとかW杯出場のレベル、もしくは「ベスト16」まで行ける力は保てるようになったかもしれないけれど、これ以上の「サッカー強豪国」として、「ベスト8常連」までレベルを上げるには、確かに、社会構造から変えていかないと難しいようだ。
自由な発想が育ちやすい環境
それは、でも、サッカーだけの問題ではなく、例えば、国民の幸福度が高い国の方が、おそらくは、サッカーに集中して取り組める環境ができやすいだろうし、普段の生活も、なるべく生きづらさが少ない方がいいのではないだろうか。その豊かさがあってこそ、自由な発想が育ちやすいのは事実だと思う。
(日本は、62位↓。サッカー強豪国の多くは、日本より上位のようだ)。
もちろん、内戦後のクロアチアが、ワールドカップに出場し、勝ち上がるといった事実は、とても偉大なことでもあるのだけど、それをハングリーさのあるなしといった「昔の価値観」ではなく、その困難さの中で、どのようにサッカーを大事にしたのか。といった部分こそ学ぶべきだし、現在、基本的には平和な社会の日本であれば、「サッカーを楽しむ」から始められるような環境にしていくことを目指す方が早いと思う。
それは、社会構造そのものに関わってくることだから、もし、サッカー界だけでも、そのことを少しでも実現でき、本当に「サッカー強豪国」になれた時には、「モデルケース」として、他のスポーツだけではなく、ビジネスや教育にまで、好影響を及ぼす可能性まである。
今、こうして書いているだけでも、ほとんど不可能なことのように思えるが、少なくともJリーグは、地域にスポーツを根付かせる、という目標を掲げ、当初は無理に思えた思想を、少しずつ形にしているのだから、本当にできないわけではないはずだ。
それに「サッカー強豪国」には、それぞれのスタイルの違いはあっても、「豊かなサッカー環境」は間違いなく、今すでに存在するはずだ。
優れたサッカープレーヤーの基準
その「豊かなサッカー環境」の条件の一つとして、「優れたサッカープレーヤーの基準」が、社会の中で共有されていることがあげられると思う。
特に、子どもの頃、どんなプレーヤーが優れているのか、といった基準が適正で一致していないと、その後、優れたプレーヤーに育つ可能性のある子どもを見逃してしまう確率が高くなる。
サッカーだけの都合で言えば、サッカーだけがトップスポーツであれば、イチローも大谷翔平もサッカーをしていたかもしれず、大谷翔平がセンターバックにいたら、かなり強力だと思うが、それは、また別の話として、「優れたサッカープレーヤーの基準」は、日本国内でも、すでに世界的な常識と一致しているのだろうか。
いいサッカープレーヤーの条件として、ごくシンプルに分けると、4つほどになると思う。
うまさ。
強さ。
早さ。
賢さ。
例えば、小学生や中学生の年齢のプレーヤーを見るときに、どの要素を大事にするだろうか。
サッカーの世界で重視されるべきは、ボールを扱う競技である以上、まず何より「うまさ」が重視されるべきだろう。ボールに関わった時に、どんなプレーができるかが、何より優れたプレーヤーの条件だからだ。
そして、成長するにつれて、速さや強さ、さらには賢さが身についていけば、いいサッカープレーヤーになっていく。そして、うまさの他の要素については、その国のサッカーのスタイルで、重視される要素は、変わってくる可能性はあるが、ただ、「うまさ」がベースにないと、サッカーが強くなれないのは、おそらくは、世界のサッカーの常識として共有できるはずだ。
日本の現状
だけど、その「常識」が日本で完全に共有できているだろうか。
体が小さくても、うまいプレーヤーが大事にされ、評価されていれば、その中で、強く、はやく、賢い「いいプレーヤー」に成長する可能性はあるが、元の「うまさ」がないプレーヤーが強く、速くなっても、世界に通用するような、「いいプレーヤー」にはなりにいくい。
ブラジルのジーコという名前は、「やせっぽち」という意味合いがあるように、子どもの頃は、体の強さに欠けていたかもしれない。だが、何より「うまい」プレーヤーだったから、大事にされてきたはずだ。そして、成長する中で、強さや速さや賢さを積み上げてきたから、世界的なプレーヤーになったのだと思う。
その基準が共有されていないと、うまくても体が小さい子どもはサッカーをやめてしまうかもしれない。うまいプレーヤーが大事にされる。そのベースがなければ、いいサッカープレーヤーが育つ確率が減ってしまって、いつまでも強くなれない可能性がある。まず技術が高い(うまい)こと。その前提がない場合は、いいプレーヤーになれない、という常識が日本全体で共有されるようになっているのだろうか。
ブラジルで、サッカーに関して屈辱的な言葉は「下手くそ」なはずだ。それだけ、「うまいこと」が重視されている証拠でもある。W杯最多優勝国は、そうした基本的な常識を大事にしてきたから、強くあり続けているはずだ。
まず、「優れたプレーヤーの基準」を正しく共有すること。それがなければ、「サッカー強豪国」への道は閉ざされたままだと思う。
(そうした基準を、最も明確に語っていた指導者の一人↓だと思います)
「ハイプレス」と「ゾーンプレス」
この番組の中でも、森保一監督は、その戦術を支える要素として、2つのキーワードを何度か出していた。
「ハイプレス」。
「ビルドアップ」。
ただ、これは、現代サッカーの基本ではないか、という思いと、特に、この「ハイプレス」という言葉へは既視感があった。
すでに、記憶としては古くなっているものの、1990年代、最初のワールドカップ出場を決めたとき、途中で交代したものの、日本代表のチームを率いていた加茂周監督が、ずっと繰り返していたのが「ゾーンプレス」だった。
そのコンセプトは、森保監督の繰り返した「ハイプレス」と、かなり似ている気がした。
相手が持ったボールに対して、なるべく「高い位置」(相手のゴールに近い位置)でプレスをかけて、奪って、そして早い攻撃によって、得点を狙う。
もちろん、それができれば、効率的なサッカーになるイメージがあるものの、その「ゾーンプレス」のコンセプトを聞いた時に、最も疑問に思っていたのは、「どうして基本的に相手がボールを持っているところから始まるのだろう」ということだった。
それは「ハイプレス」を聞いた時にも、同じ疑問を持った。
サッカーの歴史を振り返れば、最初は町対抗の、混沌とした祭りのような戦いだったはずだが、現代サッカーへ近づく過程で、初期のシステムは、フォワードが8人くらい並んでいたと思う。
だから、サッカーは、もともとの基本が、ボールを支配して、得点につなげる欲望から始まったはずだ。それが、主体的にサッカーを組み立てることにつながっていると考えられるが、「ゾーンプレス」や「ハイプレス」は、まず、相手がボールを持っている前提から、戦術を組み立てている。
それは、相手が強い、ということを前提にしていることだ、と思う。
それだけだと、あまりにも偏っている、ということもあってか、森保監督は、「ビルドアップ」という言葉も出して、攻撃のことにも触れているものの、それだけで「日本らしいサッカー」を語るには、あまりにも漠然としている印象は変わらなかった。
これまで何度も「日本らしいサッカー」というスローガンは、聞いてきたのだけど、この20年、日本代表の監督が変わるたびに、その監督のサッカーになってきて、しかも、南米の監督を招いたと思えば、次には欧州の監督にオファーをすることもあり、それは、やはり、一貫した「サッカースタイル」を追求している、とは思えなかった。
「サッカー強豪国」の中で、独自の「サッカースタイル」を持たないチームはないはずだし、本当に「強豪国」を目指すのであれば、「日本らしいサッカー」について、本当に考える時に来ているのだと思う。
「サッカー強豪国」のサッカー
2022年12月6日。21時からのフジテレビの番組で、森保監督は、「日本らしいサッカー」といったことを語っていたが、今、どんなサッカーが日本らしいサッカーなのか、という国民的な同意はまだ見えていないとしても、少なくともサッカー関係者の間では共有されているのだろうか、とやや疑問に思った。
昔、ライターをしていたとき、ドイツとオランダのユースチームのコーチに話を聞いた時があった。その時、そのU-18の世代に身につけさせるべきサッカーの戦術について聞いたら、かなり違う話が返ってきた。
ドイツは、どんな場面であっても、とにかく1対1に負けないようにすること、を重視していると語っていた。さらには、その頃もゲルマン魂といったことは言われていたので、それについて聞いたら、精神力のようなものを直接鍛えることはできない。だから我々コーチは、明日も練習をするのが楽しみになるような環境を作ることに尽力している、といった答えが返ってきた。
オランダは、このU―18世代では、ピッチの中のスリーライン。基本的には3−4−3のシステムを理解し、実行できること。さらには、そのラインの中で、それぞれのポジションのプレーヤーで3角形を形成し、パスを回せること。ただし横バスはカットされた場合のリスクが高いのでおこなわないこと。そうした原則を身につけること。そのコーチが話しながら図を書いてくれたのでまるで数学の授業のようだった。
これだけの「サッカースタイル」の違いがあって、だけど、それは誰かが押し付けたというよりは、その国のプレーヤーの技術、体格、スピード、性格、さらには、国民の望むもの、つまりは欲望のようなものも反映させて出来上がった「常識」のはずだった。
そして、その年代だけではなく、トップチームまでその「常識」は貫かれて、各年代に必要な身につけるべきことを身につけて、その中で優れたプレーヤーが代表になっていく「システム」になっているようだ。
子どもの頃から、そうした「常識」が身についていれば、大人になり別の国でプレーしていたとしても、代表に招集されれば、「オランダのサッカー」や「ドイツのサッカー」ができるはずだ。
どんな歴史を経て、そうしたサッカーを積み上げてきたのかは、さらに詳細に検討をし、想像するしかないが、その間に、例えば、日本が2022年のワールドカップで経験したような「壁」に跳ね返されて、その上で、試行錯誤してきたことも多いと思う。
もちろん、こうしたわずかな例で、「サッカー強豪国」のことのすべてを語れるわけもないけれど、例えば、南米のチームから、フィジカルコーチという役割が生まれてきたとも言われている。
それも、一人の指導者にすべてを委ねるのではなく、サッカーのクリエイティブな部分と、フィジカルな能力を上げることの両方の質を落とさないという工夫でもあると思うので、「サッカー強豪国」は、どこも独自の試行錯誤をしていると思われる。
そこまで徹底した「日本らしいサッカー」が、今の日本にあるのだろうか。そして、そこまで一貫して、徹底した方針がなければ、「日本らしいサッカー」は生まれないはずだ。
サッカーのスタイル
今回のワールドカップだけでなく、サッカー強豪国のサッカーのスタイルは、どこも明確なカラーを持っている印象がある。
あれだけ厳しい戦いを続けてきたメッシでさえ、タイトルを獲得し、重荷から解放された時に、ベースにあった「サッカーの楽しさ」が顔を出すので分かるように、おそらく、どの国も、楽しくてサッカーを始めて、楽しいからサッカーを続け、努力もしてきたという過程を経ているはずだから、いつもサッカーは「プレイする」をベースとして、その上にそれぞれのサッカースタイルを作り上げてきたはずだ。
アルゼンチンは、対人的な強さのあるサッカー。
フランスは、システムの上に個人の力を生かすサッカー。
ブラジルは、ファンタジックなサッカー。
クロアチアは、ファイトするサッカー。
オランダは、デザインし、完全に主導権を握るサッカー。
スペインは、パスで時間も支配するサッカー。
ドイツはファイトとディスプリン。
これらは、個人的な大雑把な印象に過ぎないので、どれだけ正確か分からないけれど、でも、それぞれのスタイルは、それこそ一朝一夕にできたわけではないはずだ。
日本らしいサッカー
こうしたチームと比べると、日本代表は、ワールドカップの舞台で、まだ、サッカーのゲームを「プレイ」できてない印象がある。
それは、プレーヤーの責任というよりは、サッカーに対して、相手の力をまず封じ込める、という勝負を最優先し、主体性を手放した「ワーク」になるような戦い方になるような采配になっているから、このままこの方法を続けて「ワーク」を極めるだけでは、「プレイ」する自由さを持つチームには、おそらくは永遠に勝てない。
もちろん守ってカウンターによって、勝つことはあるとしても、本当に強いサッカーチームになるのは難しい。
ただ「日本らしさ」が、強みになることは、今回のワールドカップもそうだし、ここまでの海外で活躍するプレーヤーたちのあり方でも、おそらくは明らかな要素はある。
例えば、ここまで海外で活躍してきたプレーヤーたちは、ほぼすべてスピードがあって、機敏性に優れていると言っていい。
その上で、今回のワールドカップのように、毎試合のように5人の交代枠を使ったとしても、チームとしての一体感は、それほど変わらない戦い方ができる。それは、日本社会の同調圧力の強さの反映といえるかもしれないが、これほどの調和をとれるチームは、代表では難しいのだと思う。
その上で、チーム全体でシンクロされた動きもできやすいので、そのことで、攻撃も守備にも、個別で自主的な判断をもとにして、自分の力をチームにシンクロさせて、個の力で負けたとしても相手を上回る戦いも可能になる。
それが、もしかしたら「日本らしいサッカー」のイメージかもしれない。
その前提として、プレーヤーが成長していくときは、まず、サッカーを楽しむというベースを改めて大事にし、特にジュニアの生育環境の中では、そのことを優先する。そして、うまさを最も大事な要素としながらも、成長していく過程で、強さや速さや機敏さを身につけていく。
そして、「日本らしいサッカー」とは、「機敏性を生かした、シンクロするサッカー」を目指していくことを、国民の同意を得つつも徹底していくことができ、そのための指導が全国で統一されれば、プレーヤーがどの国でプレーしても、代表として召集されれば「日本らしいサッカー」を表現できるようになるので、「ベスト16の壁」を破ることが自然にやってくるように思う。
もちろん、これは個人的な印象に過ぎないから、もっと優れた「日本らしいサッカー」は当然あり得るけれど、それは、本当に考え抜いた戦略に基づかないと不可能なのは、間違いない。
サッカー協会
本当に社会構造から考えないと、「サッカー強豪国」にもなれないようなので、「何かを変える」のであれば、その要素は数限りなくある。
例えば、テレビ(もしくは映像メディア)のサッカー中継。
個人的な経験に過ぎないけれど、もう30年ほど前に東ヨーロッパに行き、テレビでサッカーの番組を見た時に、足元のアップの映像がずいぶん多いことに気がついた。これだけ、具体的な技術が分かりやすい映像に接していれば、どんなプレーがいいプレーなのか、それをどのようにおこなっているかが、より分かりやすいと思えた。
こうしたことも「サッカー環境の豊かさ」をつくる、一つの要素にすぎないけれど、これを実現するにしても、おそらく膨大な知見と経験が必要になってくると想像できる。
そう考えると、何から始めたらいいのか分からなくなりそうだけど、「日本らしいサッカー」を本当に実現し、「サッカー強豪国」になっていくのに、まずできることがあれば、日本サッカー協会の刷新ではないだろうか。
1970年代に奥寺康彦氏が、日本人初のプロプレーヤーになってから、数多くのプレーヤーが海外に挑戦し、活躍する人もいれば、思ったプレーができなかった人もいるはずだ。そして、この20年では、ワールドカップという舞台でプレーをし、そこでしかできない体験を積んだプレーヤーが、すでに100人以上いると思う。中には、世界一にもなり、メッシと並んでバロンドールを獲得した澤穂希まで存在する。
同時に、監督としても、ワールドカップという場所で経験を積み、身をもって、世界との差を感じた人もいるのだけど、そうした、日本サッカーの宝のような人たちを、日本サッカー協会という場所で、十分に生かしてきたのだろうか。
今の日本サッカー協会の会長は、田嶋幸三氏が務めている。
高校時代から、大学、そして社会人まで、日本国内では、突出した存在で、優れたプレーヤーだったことは間違いない。
ただ、海外でのコーチ経験や、ユース年代の代表監督の経験はあったとしても、プロのプレーヤーとしての経験もないし、海外でのプレー経験もないはずだ。
今回、日本代表が「ベスト8」の目標を掲げ、それが達成できず、これから本当の「サッカー強豪国」を目指すには、どうしたらいいのか。そんな議論を本気で始めるとするならば、まずは日本サッカー現会長や理事が辞任し、次は、世界のサッカーを知っている人が、日本のサッカー界にも随分と増えたのだから、そうした人たちを、日本サッカーの意志決定機関でもある「日本サッカー協会」に多く迎え入れ、十分にその経験を生かすことも考えていい時期に来たということではないだろうか。
ただ、地上波でワールドカップを見ていた視聴者に過ぎないし、誰に頼まれたわけでもないのだけど、そんなことまで考えさせるほど、今回のワールドカップは、素晴らしかったのだと思う。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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