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芸人・プチ鹿島は、言語学者・チョムスキーに似ているかもしれない

 プチ鹿島は、芸人であり、ノーム・チョムスキーはアメリカの言語学者である。一見、共通点がありそうにない、この2人は、実はかなり似ている部分があるのではないか、と特に最近のプチ鹿島氏の活躍を見て思うようになった。2人とも、誰にでもアクセス可能な、表に出ている情報のみで、現状を鋭く分析してくれる人たちなのだ、と思っている。

 ノーム・チョムスキー 。
 2001年の9・11。アメリカでの同時多発テロは、多数の犠牲者が出て、そのあとにイラク戦争まで引き起こした。その頃の、アメリカの国としての、好戦的なまとまりは、マスメディアなどを通じて、あいまいにしか理解できなかったが、危険性もあるのでは、と感じていた。

 そんな頃、読んだのがノーム・チョムスキーだった。

 まだ、多発同時テロから、それほど時間がたっていなくて、「報復する資格はない」などと、とても言えなさそうな気配に見える場所で、これだけのことを言うのは、勇気がいるだろうし、こうした知識人が存在することに、アメリカの底力を感じたりもした。

 何より、個人的にすごいと思ったのは、ここで語られていることが、ほぼ誰でもアクセス可能な、表に出ている資料のみを利用し、分析し、考えられていることだった。
 今の時代であれば、かなりの情報が出ているのだから、自分だけが知っていることを使わなくても、こんなに明快で独創的とも思える見方ができるのだと知った。
 問題は、考える力なのだ。
 読んでいて、納得のいく内容だった。

 何年後かに、チョムスキーが、本業の言語学の分野で、独創的で革新的な仕事をしている言語学者であることも、改めて知った。当たり前だけど、考える力が、ずば抜けているのだと、思った。


 近年も変わらずに、言うべきことを言っているように思う。

称賛と懲罰のパターンは歴史を通じて変わっていない。国家に奉仕する立場をとる知識人たちは、特別に称賛されるが、国家への奉仕を拒否する知識人たちは懲罰を受ける。
冨の集中は政治力の集中を生む。そこで政府による財政政策や企業統治の規則、規制緩和などは、さらなる冨の集中を生む。




 プチ鹿島氏を知ったのは、ポッドキャストだった。

 東京ボッド許可局、というタイトルでポッドキャストを、3人の芸人が、喫茶店かどこかで話しているのを、録音して、ほぼ手作りのようにして始めたらしい。それが、ラジオ番組にまでなり、現在も続いている。(これも一つのサクセスストーリーのようだが)

 マキタスポーツ、サンキュータツオ、プチ鹿島の中で、私が、聴き始めたころは、すでにドラマなどでも知っていたマキタスポーツのことが気になり、そのあとに本当に教養のあるサンキュータツオの言動にも惹かれていた。

 それが、ここ1年くらいは、特にプチ鹿島の発言に切れ味が増しているように思い、そして、気になって、本を読んだ。

 この中で、オバマ大統領と寿司をめぐる様々な報道をとおして、その謎を見定める力に、偉そうな言い方で申し訳ないのだが、すごく感心もしてしまった。
読んだあとでは、高級寿司というものが、読む前とは、違ったものに感じるようになった。
 この本自体が、メディアリテラシーの教科書になりえると、私も思った。

 また、場合によっては、プチ鹿島氏は、新聞だけでなく、様々な媒体の電子版にまで、目を配っている上に、発表している文章を読むと、基本的に「新聞の読み比べ」だけで、ここまで見えるのか、と驚くような気持ちにもなることがある。(本人には、大げさと苦笑されそうだが)

 「桜の会」が小さなことかどうか。1年、もしくは2年前の新聞の記事まで組み合わせて、「恣意的」という言葉を使った記事(もしかしたら、当の新聞記者も忘れている可能性まである)を、思い起こさせ、そして、それらをつないでストーリーを立ち上がらせ、その恐さまで、炙り出している。よく見ているし、よく覚えている、という凄みを感じさせる。

 このコラムの中で、一斉休校要請に関連して、麻生太郎副総理が「つまんないこと聞くねえ」と発言し、問題になったことも取り上げている。ただ、毎日新聞が小さく報じている、麻生副総理の前日の独り言のような発言にも着目していて、それを読むと、同じ「つまんないこと聞くねえ」の響きが以前とは違って聞こえてしまうような気もする。少なくとも、私は、そんな独り言のような言葉を、新聞に載っているのに、知らなかった。細かいことへの目配りもすごい。


 プチ鹿島は、どうやって、こうした力を養ったのだろうか?
 芸能の世界には、時事漫才という伝統もあるし、プチ鹿島は芸人であるから、こうした能力を発揮できることと無縁ではないはずだ。時事的なことを、どうやってネタとして落とし込むか、ということは、観客からは見えない世界で、繊細で膨大な工夫と努力の蓄積もあるはずだからだ。

 ただ、それに加えて、気になるのが、プロレス観客者としてのキャリアである。昭和のプロレスを子供時代から見ているらしいので、あいまいさ、分からなさなどを、表に出ている現象(試合)を見て、また周辺の言葉も拾い集め、その意味を考え続け、自分なりに読み解く訓練がされているはずだ、と思う。今のプロレスと違って、分かりにくい。そのややこしさを含めて、とことん読み切ろうしていたのが、昭和のプロレスファンだったという記憶がある。そこに幼少期から参加しているのであれば、ある種のエリートであることは間違いない。

 その経験の中で知らずに鍛えられた柔軟な思考によって、すべての新聞記事を、現在も過去も含めて、注意を張り巡らしていれば、もしかしたら、他の誰もが見逃しがちな小さな記事に漂う違和感まで、とらえていても、おかしくない、と思う。さらには、見落としがちな過去の記事との関連性まで、見出せるかもしれない。

 それにしても、新聞の読み比べ、という「昭和のインプット方法」を有効にさせているのは、アウトプットの方法を、現代にアップデートしているからだとも思う。それこそが、現役の芸人の強みなのかもしれない。


 今は「サンデーステーション」など、テレビにも出演しているし、現在の活躍をリアルタイムで見るべき人だとも思うので、個人的なオススメに過ぎないが、プチ鹿島氏本人の、ツイッターをフォローしていくのがいいのでは、と思っている。


 チョムスキーとプチ鹿島。
 表に出ている材料から、全体の流れまで読み解き、アウトプットしていく。
 その能力は、実は似ている部分もあると、やはり思えるのだが、こうしたタイプが力を発揮する時は、次から次へ問題が出てきて、メディアの人々が次々に対応せざるを得ないような、おそらく時代が荒れた時でもあるだろうから、余計に、今、存在価値があるのではないだろうか。

 そして、当たり前だけど、その違いもある。
 言語学者と芸人という社会的な役割の違いだけでなく、チョムスキーが、いろいろな材料をまとめあげて、独特の角度の、自分の「作品」を見せてくれるアーティストタイプとすれば、プチ鹿島は、それぞれの記者が書く記事を「作品」として、独特の並べ方をすることによって、違うものを見せてくれるキュレータータイプではないだろうか。

 とはいえ、こうした話も、こうしてこのnoteを書いている人間の、個人的な感想でもあるので、もしよろしかったら、この2人の著作を、できたら、それこそ「読み比べ」してほしいと思っています。


 ところで、プチ鹿島氏に関して、プロレスの観客としての力を過大評価しているのではないか、と違和感を覚えた方もいらっしゃると思います。
 それは、私自身の事情に関係しています。
 村松友視の、この本を読んで、プロレスに興味を持ち、当時の長州力と藤波辰巳の連続ドラマのような試合を見て、遅ればせながら、プロレスの魅力に気づき始め、就職先まで、影響されました。そんな人間なので、プロレスの優れた観客に対して、過大評価する癖があると思います。その点は、ご容赦いただければ、と思いますが、この村松氏の本は、固有名詞の分からなさがあると思いますが、検索しながらでも、今でも読む価値があると思っています。



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