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「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」③「自粛警察は、どこにいるのか?」

「自粛警察」という言葉は、いつのまにか日常的な言葉になってしまったように思います。ただ、秋になり、やや聞く機会が減りましたが、もし、感染者が再び増えてきたら、おそらく、また増えそうです。その前に、一度、考えてみたいと思います。

 その「自粛警察」について語るのに難しいと思うのは、それが、決して他人事ではないということでしょう。
 おそらく誰の中にも程度の差はあれ、「自粛警察」は存在します。そう断言できるのは、自分の中にも確実に「自粛警察」がいると感じることもあったからです。

 今回は、③「自粛警察は、どこにいるのか?」を、書いていきたいと思っています。そして、このテーマは、必要以上の非難などを受ける可能性もあるので、ある程度クローズにしたほうが、きちんと考えられると思いました。今回までは、有料とし、「いつまで続くか分からないコロナ禍で、どうやって生きればいいのか?」第4回目で考え、それは、無料noteにしますので、ご了承いただければ、ありがたく思います。

 今のところ、第1回「コロナは、だたの風邪」という主張第2回「見えにくい政策を考える」。第3回「自粛警察」。第4回「いつまで続くか分からないコロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?」の予定です。次回④は、当初の予定よりもかなり遅くなりそうですが、一ヶ月程度たってから、投稿する予定です。

いつから「自粛警察」は注目され始めたのか?

 改めて振り返れば、行きすぎた「自発的な制裁措置」が、「自粛警察」と広く言われているようになったのが、2020年の4月のことのようでした。

 転機となったのは28日。朝のワイドショーが「営業中の店『バカ』“自粛警察”が続出!」と新聞テレビ欄に掲載して放送。さらに著名人が「自粛警察がトレンド入りしているけれども、とても良くない」「自粛警察なのに、自分たちが自粛していない」など“自粛警察の自粛”を求めるツイートをしたところ、1万3000回を超えるリツイートがついた。これらを受けて、28日からポータルサイトのネットニュースにも「自粛警察」のタイトルが踊り出した。

 どうやら、4月7日の緊急事態宣言に呼応するように、すぐではなく、しばらくたってから、その活動が目立つようになったようです。この3週間の時差は、少し不思議です。

 NHKの取材による5月9日の報道では、当該行為を行った者が取材者のインタビューに対し「自粛警察と呼ばれる行為をしたつもりはない」と回答し、「対策を取らない人は自由に行動し、注意して生活する人だけが疲れてしまっている。事態を良くするには、こうするしかなかった」と回答する者もいた。

 こうした当事者が実在しただけでなく、取材に応えていることも意外でしたが、当事者は「自粛警察」という認識がないから、話ができたということのようです。

 この取材だけでの推測ですが、不公平感と、不安と、怒りが発動されているような気もしていますし、自分は被害者としての意識で、しかも「世を正すために、止むを得ず、勇気を持って活動する」という「正義感」が育つまで、3週間の時間が必要だった、ということかもしれません。

 ただ、改めて、前回の「見えにくい政策」(リンクあり)よりも、もしかしたら、もっと「見えにくい」と思われる「自粛警察」は、どんな人が担っているのだろうか。それをまずは、あまり注目されない今だからこそ、振り返り、想像し、考えてみようと思います。

張り紙の「自粛警察」

 千葉県内で高齢の女性が営む駄菓子屋は4月下旬、何者かに「コドモアツメルナ。オミセシメロ」という紙を貼られていた。店は1カ月前から休業していた。

 おそらく「自粛警察」という名前が大きく広がった「事件」の一つがこれではないかと思われるのは、印象に強く、そして、いろいろな「自粛警察」のエピソードの中でも、わかりにくく、この張り紙によって、店主は恐怖を感じたと伝える報道もありました。

 張り紙だったり、手紙のようなものを放り込まれたり、といった「排除的」な匿名の行為は、かなり昔からありました。それは、どれが起源といえないほど、昔から行われていることだと思います。

 ところで、この張り紙の文面の「コドモアツメルナ オミセシメロ」ですが、1ヶ月前から休業していたといわれています。それは、ちょうど学校の一斉休校が要請された時期とほぼ一致していますから、この駄菓子屋は、要請にすぐに応えていることになります。

 それが、どうして1ヶ月もたってから、こんな張り紙をしたのでしょうか。

 「自粛警察」については、このあと、いくつかのタイプに分けて、考えていきたいと思っているのですが、張り紙を貼るのは、かなりクラシックな方法で、少し考えたら、匿名の電話や宛名を書かない手紙や、匿名のSNSなどの方が、安全な気がしますし、張り紙は、貼っているところを見られたらアウトですから、リスクが高いように思います。だから、こうしたことに縁がない人か、逆にSNSは、場合によっては確実に身元が割れることは知っているか、どちらの可能性もあります。

 それでも、一ヶ月かかっって蓄積した、その不安や怒りや「正義感」の濃度は、わざわざ赤い文字で定規で書いた張り紙を貼るくらいに、高いように思います。そして、単純に推測すれば、この駄菓子屋が休業していたのを知らない人だと考えられます。

「マスクノムダ」の意味

 報道では「オミセシメロ」までが多いのですが、実際の張り紙には、そのあと「マスクノムダ」という言葉が続いています。

 この意味がわからなかったのですが、それについても情報がありました。

   この駄菓子屋の方が、こう言っています。

 実は3月上旬の『報道ステーション』で、ウチが子どもたちにマスクを配っている様子が放送されたんです。これは憶測ですが、貼り紙に『マスクノムダ』と書いてあるので、(“自粛警察”が)それを見てきたのかなと

 この駄菓子屋自体を始めた、その動機自体が、褒められこそすれ、非難されるような内容ではないようでした。

 同店は店主の村山保子さん(74)と長男の成田英輝さん(45)が東日本大震災をきっかけに、「人間いつ命がなくなるかわからない。親子で地元に少しでも役立つことができたら」(成田さん)と約7年前に開店。「子どもが子どものまま主役になれる駄菓子屋は大切な勉強の場だったのかもしれない」(村山さん)との思いから子どもたちと接し、いまでは地元の子どもたちの”社交場”となっているという。

 こうした事実を知れば、より非難がむきにくいはずだし、マスクを配っていたのも、いち早く、感染拡大予防に対しての活動の一環としておこなっていたのだから、それも非難されにくいことのはずなのに、どうして、こうした張り紙をされてしまったのでしょうか。

 3月から4月を振り返ると、コロナ感染が拡大しつつある時で、情報も少なく、不安もふくらみ、4月下旬はまだマスク不足で、手に入りにくく、ドラッグストアの前には毎日のように行列ができて、マスクを購入するために「密」になるという矛盾した状況があちこちで見られました。マスクに振り回されていた記憶もあります。気持ちが重い日々でした。

 張り紙を貼った人物も、おそらくは、そうした不安と苛立ちの中で生活をしていたと思います。そんな時に、もしかしたら、こんなにマスクが手に入らないのに、そういえば、マスクを子供に配っている駄菓子屋があったのをテレビで見た。子供を集めるのは「密」をつくるから、そこでクラスターが発生したら、どうするんだ。それよりも、子供は重症化しにくから、マスクいらないのではないか。自分がこんなに苦労しているのに、どうして配っているんだ。

 注意をしよう。
 これは、世の中をよくするための「正しいこと」だから。

 そんなようなことを考えた人物は、おそらくは近所ではないように思います。近かったら、さすがに休業してから長いことも知っていたでしょうし、すでに自粛しているお店に、張り紙をするのは、「正義」というには厳しいはずです。

 それに県をまたぐような移動は、「正しいこと」とは言いにくいので、そこまで遠くないようにも思います。素早く近づき、早く立ち去れるように、クルマなどで出かけたのではないでしょうか。張り紙を貼るところは見られたくないので、夜ではないでしょうか。夜中だったら、今営業中かどうかも分かりません。

 こういう推測を今さらしても意味がないかもしれませんが、改めて考えてみると、緊急事態宣言中も、不安が膨らみにくい政策がとられ、常に国のリーダーが、安心させるために語り続けていたら、こうした「自粛警察」が生まれていたのだろうか、と改めて思います。

「ミセ」ではなく「オミセ」にした意味

 それに気になるのは、「オミセ」という表現で、この駄菓子屋に対して、もしかしたら、憎しみだけではないのかな、とも思いました。マスクを感染拡大防止のために配る、といった行為は非難されないのですから、そうした人を攻撃するのは、気がついていなくても、どこか後ろめたさがある可能性があります。

 そうした複雑な気持ちが、こういう場合は「ミセ」という言葉になりそうなのに、「オミセ」という表現をとらせたのかもしれない、とも思います。そして、子供が大勢集まるような、地域で必要とされている場所であることへの、うらやましさは、どこかになかったのでしょうか。

 ただ、張り紙の写真をみると、「オミセ」ではなくしてしまうと、「ミセ シメロ」になり、それは、「見せしめ」といった意味合いと混同されるために、「オミセ」にしたのだろうか、とも思います。どちらにしても几帳面さが窺えるので、こうした人物は、より不安が高まりやすかったと思います。だから、こうした行動に及んでしまったのではないでしょうか。

 そして、実は、報道によってはカットされていた、「マスクノムダ」が、この張り紙を貼った「自粛警察」の、もっとも伝えたかった可能性もあります。2020年の4月の下旬は、まだマスク不足で、どの地域の人も苦労していたと思います。

 しかも、子供は感染しても重症化しにくいということがあるので、「ムダ」ということを伝えるというのは、どこか、教育的な思いに近い、こちらの方が教えてやる、といったような気持ちもあったのかもしれません。(ただ、マスクは感染している場合に、他人に移さない意味合いが強いので、ムダではないと思いますが)。 
 ですので、思った以上にいろいろな気持ちがあった可能性もあります。

 それにしても、この張り紙が、報道されると思っていたのでしょうか。
 それが思ったより大きく扱われると、まずは、ばれるかも、という恐さはなかったのでしょうか。

 もちろん、こうした「自粛警察」で大騒ぎになりすぎるのはよくないし、「犯人」をつるしあげみたいにする必要もないとは思うのですが、こうした「自粛警察」が捕まった、という話も聞いたことがありません。この千葉の張り紙の「事件」で、その「犯人」が特定されなかったことが、その後の「自粛警察」の活動を抑制しなかった可能性も考えられます。

 それから何ヶ月かたった8月の時点では、この駄菓子屋自体は休業中ですが、「コドモアツマレ」の文字を入れたTシャツなどの通信販売などを始め、お店の再開を目指しているようでした。

ガラスをわる「自粛警察?」

「自粛警察」被害も相次いでいる。東京・高円寺のダイニングバーは「目隠しして営業か? それで協力金ももらうつもりか」という紙が貼られていた。その8日後、店のガラスが何カ所も割られていた。警察に通報したが、犯人は捕まっていない。同じ高円寺のライブバーにも同様の貼り紙があった。その日、無観客ライブを配信していたが、営業はしていなかった。

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