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『さよなら、俺たち』 清田隆之 「進化のための痛みの記録」。

 著者・清田隆之氏の経験というのは、たぶん、特殊だと思う。
 学生時代から、「恋バナ」を集めるという行為を続け、それは、集めるとはいっても、人に話を聞く、ということだから、人と人とが会って、プライベートなことを話をしてもらって、聞いてを繰り返していくこと自体が、その聞き手にとっても、想像以上に、人としての変化を促すことだと思う。

 その長年の「成果」を、これまで著書として発表したり、メディアで話してきたり、それらを、こちらも読んだり聞いたりすることで、「男性の、あるある話」として受け取ってきた部分もあるのだけど、それは、著者が、そうした「男性たち」へ一定の距離を保って描いてきたから、「男性」読者としても、どこか安全な場所で楽しめてきたと思う。

 その距離や質が、完全に変わったと思えたのが、本書だった。

『さよなら、俺たち』  清田隆之

 今回の主体は、完全に著者本人になっている。
 これまでは、「男性」のこととして描いてきたことを、1980年生まれの著者が、自分自身の学生時代から振り返って、向き合い続ける記録でもあるが、それは、痛々しくも感じられる。

 ふさがった傷で、すでに体の一部として、もう問題なく機能しているような場所を、もう一度、メスで切り裂くように切開し、そのキズは、本当に「被害」のキズなのか、それは「加害」に関係しているのではないか、それは本当にキズだったのか。そうしたことを、もう一度、今の自分が検討し直して、自分を進化させていくような記録だから痛々しいのだけど、そうした身を削るような方法だから、読者の「男性」である私にも、これまでの著書よりも、「他人事」にさせない力が、確実に強い。

 たとえば、著者の高校時代のことは、時代が違ったとしても、自分にも、確実に思い当たることがある。

 本当にしょーもない、何がしたいんだかさっぱりわからないようなチキンレースやハラスメント行為をくり返していた。存在証明のための切実な行動だったともいえなくもないが、そんなことをしてないで、もっと友達と悔しさや悲しさや現実のままならなさについて語り合えば良かったと、今になって思う。 

放置されたままの課題

 そして、放置されているままの様々な課題。

 男性は、当たり前のこととしてわざわざ考えないし、女性は、気持ち悪くて面倒臭いから考えたくない、という課題を、考え続けていく。それは、男性としての自分が、見たくないようなことも見たり、考えたくないようなことも考え、それで、著者が、こうして形にしてくれているから、たぶん、ここから、やっと始められる形を整えてくれた、ということだと思う。


 たとえば、「さしすせそ」のこと。それは、「さすが。知りませんでした。すごいですね。センスがいい。そうなんだ」という言葉によって、「男は喜ぶ」みたいな「セオリー」で、それは今や女子小学生が読む雑誌にまで、掲載されている、という。そして、どうして、それが言われ続けているかについても、自分も含めた「男性」の恥ずかしいような実像にまで考えが至る。

 思うに「さしすせそ」とは、古今東西の女性たちが膨大な経験則から導き出した最適解ではないか。そこにあるのはおそらく、男子を喜ばせるためという積極的な動機ではなく、「こう言えば男たちは扱いやすいよ」あるいは「こう言ってあげないと不機嫌になるから面倒くさいよ」という消極的な動機だ。
 「男のほうが幼稚だから」ということになる。つまり「男の子はホメられるのが好き!」というより「男の子は褒めないと機嫌を損ねる!」のほうが実態に近い。それが面倒くさいがためにこの構造が温存され続けているにすぎない。 


 そして、「男性」も含めて、「男はそういうものだから」と扱われてきた「性欲」。それは、20年くらい前には、「下半身のことを処理する」と、自分のことなのに、そして大事な事でもあるのに、そんな理解しようとしない扱いをしてきた歴史があり、そこから、実はほとんど進んでいないことを、自分も含めて、ちゃんと考えてきてこなかったことも、明らかにしてくれている。

 お茶をする。言葉としての響きはとてもライトだが、時にそれは深い共感や心地良さをもたらすものだと感じている。(中略)
 この習慣が身について以来、私には「女友達」という存在が飛躍的に増えた。それと同時に、「性欲に振りまわされる」ということも減ったように感じる。それはおそらく、かつて自分が性欲だと思っていたものの中に含まれていた多くの感情や欲望が、お茶をすることでかなり満たされたからだ。

 著者が親切なのは、できるできないは別として、具体的な方法も提示してくれていることだと思う。

 男子は性的な嗜好については饒舌に語るものの、それがどのように形成されていて、奥底にどんな欲望や願望が存在しているのか、そこまで掘り下げて語り合うことはあまりしない。きっと「男の性欲」だって人それぞれのはずだ。そんな話を、男性の友人や知人たちともお茶をしながらフランクに語り合ってみたい。

人としてのありかた 

 そして、著者は、「男性」としてのありかたを考えていくことで、さらに、普遍的な場所にまで届きかけている。

 それは、いま日本で生きている「男性」が、どうして、こうなってしまったのか。ということに関わる話で、それは、著者は「平成の時代」について語っているのだけれど、実はもっと以前から、今の日本の男性がすっぽりと全部入るような明治以来の「富国強兵」、それに続く「高度経済成長」、それで終わるかと思えば、次は「グローバルな新自由主義」、その時間の中で出来上がってきた「男性」である可能性もある。

 それは、ごく一例をあげれば、こうした人間像だ。

(受験勉強の1年間で、早稲田に合格)
 この1年間により、「外から与えられた課題を頑張って打ち返していくこと」が努力や勉強なのだという感覚が根づいてしまった。先に〝受験型〟と呼んだのはこのような思考モデルで、私は長い間これに囚われ続けることになる。

 それは、人が、「何ができるか」で評価される社会であり、その社会に適応しすぎたために、誕生する「男性像」ではないか。という問いかけもされていて、それは違うのではないか、ただ存在することの大事さ。それを尊重できることが重要なのではないか。そういったことを、さくらももこの作品に仮託して、著者は、こんな表現をしている。

 私たちはhuman doingである前にhuman beingだ。「こういうふうにできている」のだ。私にとってさくらももことは、真面目な私たちに笑いと脱力をもたらしてくれるとともに、平成という時代の、さらにその先を照らしてくれる作家であり続ける。

 人は、特に男性は変わらなければ、これから先は生きていけない。変化はつらいものだから、変わらない選択もできる。ただ、それは動物として生きていけはするが、これからの社会の一員として、つながりを持ちつつ生きていくのは、おそらくは年々難しくなると思う。それは、すでに「暴走老人」という言い方で、忌避する存在として発見されつつあるが、そうならないための方法も、著者は親切にも提示してくれている。

 おしゃべりや読書によって言葉を仕入れ、感情を言語化していく。それを続けていくことでしか想像力や共感力は育っていかない。ハラスメントをしてしまう「気づかない男たち」に必要なのは、そういう極めて地味で地道なプロセスを延々くり返していくことではないだろうか。  

どうしようもなく、変われないこと

 そんなことを思いながらも、それでも変わらなかった平成のことを考え(リンクあり)、あるラジオ番組を聞いた時、それは、人間の、どうしようもない変われなさに関係しているかも、と思って、微妙に諦めるような気持ちにもなりかけた。

 この番組の中で、語られていたのは映画を見に行った時のことで、それは、昔の古い世界観でできあがっていた、という。今ならば、表だっては語られないようなセリフも頻発していた。ごく一例として、登場人物の女性が、わたしは二号でも、妾でもいいから、そばにおいてほしい、的なことを言い放つのだけど、その時、伯山のそばに座っていた年配の男性は涙を流していたらしい。

 そして、伯山が考えたのは、今のジェンダーが語られ、本当の男女平等が議論されるような、社会の動きに絶対についていけない人たちのことだったという。

 それは、そうした人たちを下に見たり、ということではなく、この人たちは、育ってきた社会の価値観に忠実だっただけで、こうした価値観の変化は、おそらくはもっと以前は、さらにゆっくりとしていて、一人の人間が生きている時間には、あまり変えなくてもよかったのに、今の変化は早すぎて、生きている間に、1度だけでなく2度も3度も変えないと生きていけないのかもしれない。

 だけど、それは、こうした映画に涙を流す人たちには、そこで価値観を変える苦痛を考えたり、年齢や体力のことを考えると、もう無理だし、それを強いることもできないのでは、といったことをラジオで、語っていたと思う。

 それは、清田隆之氏が著書で語っていたことと同様に、実は重要なことであって、立川談志が言っていた「落語とは人間の業の肯定である」と、つながってくることかもしれない。

違う時間の流れ方

 今の時代は、すでに違う時間の流れ方が何層にもなって、それぞれ違う時間を生きている人たちがいて、実はほとんど交わらないのではないか。SNSなどを見ていると、全員が、「さよなら、俺たち」の先を進み始めているようにも思うのだけど、自分も含めて、昔の価値観の中で育った人間が、改めて、本当の意味で適応していけるかどうかと問われると、自信はない。清田隆之氏のように、痛みと共に、過去の自分に決別できるかどうかも、分からない。


 ただ、そうしたことまで考えられるほど、切実な本でもあるので、これからも、社会の中で生きていきたい男性や、男性の分からなさに悩む女性には、おすすめできる本です。



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読書感想 『彼女は頭が悪いから』  姫野カオルコ  「暴走するプライドの醜さと恐さ」

「アイス」が、少しずつ小さくなる国で、生きていくということ。

暮らしまわりのこと。

「思い出に関する、いろいろなこと」

「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」③ 2020年5月 (有料マガジンです)。



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おちまこと
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