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「アフターコロナの図書館」と「新しい日常」。2020.6.12

  図書館から、緊急事態宣言以前のように、メールが届くようになった。

 いつも読みたい本を、定められた冊数ぎりぎりまで、予約をしている。図書館の方々に負担をかけているので、申し訳ない気持ちもありつつも、予約数によって、区内の図書館の所蔵数によって、いつその本が来るか予想がしづらいという思いもある。この前、図書館に行ったばかりでも、場合によっては、1週間以内で引き取らなくてはいけないから、ひんぱんに図書館に足を運ぶことになる。

 それは、緊急事態宣言の前までは、通常の出来事だったのが、そういうメールも約2ヶ月来なくなっていた。今月に入って、急に動き出して、2ヶ月前に予約していた本や、先週予約した書籍も次々と、用意ができました、というメールが来るようになった。今日までに行かないと、閉館していた期間も含めて、半年待った本が、キャンセル扱いになってしまう。

 こうして希望する本を読めるのだから、ありがたいことに変わりはない。ただ、この自分の思い通りにいかない感じは、いつもの図書館の感覚だった。それは、ちょっと、うれしかった。


 雨が降る前に出かけようとして、午後1時半頃に家を出る。
 もう、周囲の光景に対して、特別の注意が向かなくなっている。
 マスクをしている人が多いけれど、真夏日くらいの気温になってきているから、マスクをしてない人がいても、そんなに違和感もない。
 昨日、6月11日の夜に、東京アラートが解除された、というニュースは見た。

 歩いていると、マスクをしたままだと、熱がこもって、思ったよりも暑い。
 外を歩いていると、緊急事態宣言の時期の緊張感は、どこかに行ってしまったように感じる。
 公園に親子がいて、小学校低学年くらいの女の子がブランコをこいでいて、マスクをあごまでおろしているけれど、この暑さでは、ごく自然な光景になっている。

 午後2時頃に、図書館に着く。
 入り口付近には、3密を避けましょう、といったポスターが貼られ、そして、このポスターは、ずっとここにあるんだ、と思う。それが、これからは、いつもの図書館になっていくと、改めて気がつく。

 中には、親子3人連れがいる。
 絵本をやぶいちゃって、といった声が聞こえ、父親らしき人の足元で、2人の、小学生に入るか入らないかくらいの兄弟は、受付の前で、小さく動き続けている。3人とも、きっちりとマスクをつけている。本当は、もっと動きたいような、気配は感じる。

 私は、この前、緊急事態宣言が解除されたあとに借りていて、次の予約が入っている本を2冊返却し、新しく7冊借りる。
 受付にはビニールがはられていて、開架図書棚には近づけなくても、予約ができて、メールで知らせも受け取れて、本を借りられるようになったことで、いつもの図書館に確実に近づいている感じはする。


 それでも、少し周囲を見たら、以前は、雑誌コーナーになっていた場所が、完全にソファーが撤去され、がらんとした空間になっていて、もう、前には戻らないような空気を感じた。ここを、以前のように戻したら、そこは、3密の空間になるのは、間違いない、という感覚に、ただの図書館の利用者でも、薄い怖れとともに、自然に共有できるようになってしまった。いつもの図書館に近づいたとしても、本の貸し借りはできたとしても、人が集まる機能は、どこまで戻るかわからない。

 その機能を持つ、代表的な場所は児童室だったと思う。以前は、子供達でにぎわっていて、たくさんの絵本や、本を読めるだけでなく、その部屋で、密な関わりがあってこそ、目に見えることも、はっきりと数字ではわからないことも含めて、おそらくは、豊かな関係がそこで育まれているのだろう、と感じていた。それは、図書館にくると、特に週末は、児童室は、かなり子供達でいっぱいで、その、いい意味での混沌は、この受付までも聞こえてきていたから、知っていたような気になっていた。

 そんなことを、改めて思い出したのは、まだ親子連れが、絵本のことなどで手間取っているみたいで、そこにいるからだった。受付カウンターの高さにも、全然届かないくらいの小さい子供が、これからのアフターコロナの図書館に来ても、以前と同じ環境が提供されることは、少なくとも、ここ何年かは無理だと思う。見知らぬ同志で、じゃれあうように遊んだり、といった多少のトラブルこみの豊かな体験が、これから減ってしまったら、どうなるのだろう。大人の1年や2年は短いけど、若いほど、その1、2年は長くて、そのあとの影響も大きくなるはずなのに……などと、自分は無力だし、大きなお世話だとも思いながらも、そんなことを思ってしまっていた。

 今は立ち入り禁止の場所になっている、児童室は、もう開くことはないのだろうか。
 それとも、この前、見た「新しい」マクドナルドのように、座る席や、座っていけない席が決められて、移動は許されない、という場所になるのだろうか。そうなったら、以前と同じような見た目として再開しても、全く意味の違う空間になってしまうのに、といったことを、考えた。


 図書館を出て歩いていたら、うしろから自転車が近づいてきて、下り坂なので、一気に追い抜かれて、たちまち遠くに、小さくなっていって、坂を降り終えると、右に曲がっていった。それは、さっきの親子3人連れで、父親と思われるマスクをした男性が運転をして、後ろと前に1人ずつ、マスクをしっかりしている子供たちが乗っていた。


 コロナ禍の中で、感染を防ぐのは、最優先事項なのは間違いないと思うけれど、これから育っていく子供にとっては、「新しい日常」は、これまでとはあまりにも違い過ぎて、心身ともに、どんな風に影響が出るのか。そういった詳細で繊細な検討は、社会の責任として、もう始めてもいいのではないか、と思った。

 具体的にいえば、たとえば、図書館が、アフターコロナになって「新しい日常」に適応している場所になったとしても、同時に、どうしたら、これまでの図書館と遜色ないように、人と関われる機能を持てるようになるのか。今は、そういう「新しい検討」も、始めるべき時に、来ているのではないだろうか。

 今日、子供達が、せっかく図書館にきているのに、動ける範囲が、すごく限られている姿を見て、そして、これからも制限が多い場所になりそうなことを考えると、自分には何の力もないのだけど、そんなことを、思った。


 帰りも、家まで歩いて10分くらいかかる。
 建設現場では、いつもと同様に工事が進められている。

 マンションから出てきた二組の、自転車に乗った親子は、近くの公園に行くみたいな会話をしていた。4人ともマスクをしていなかった。この気温であれば、ごく自然な光景だった。


 生活している人間すべてが、自分も含めて、日常に戻りたがっているのは、自然だと思った。そして、本当に「新しい日常」と呼ぶだけの価値がある環境を作るのであれば、感染予防だけでなく、経済的にも、人間の心身にも、不可能かもしれないけれど、これまでよりも、よりよい環境になるような努力を重ねる必要があるのではないか。それで初めて「新しい日常」といえるのではないだろうか、と自分の無力は棚にあげて、そう思った。


 「新しさ」とは、本来ならば、それまでに加えて、何かひとつでも「新しい」、できたら「より良い」という要素もプラスすることで、初めて心から「新しい」と言えるはずだった。だから、これまで「新しい日常」という言葉を聞くたびに、どうして微妙な違和感を覚えていたかも、少し分かったように思えた。




(他にも、いろいろと書いています↓。クリックして読んでいただければ、うれしいです)。

初めて経験する「夏マスク」と「夏ビニール」。2020.6.18.

『「新しい」マクドナルドで、ソフトを食べた真夏日』。 2020.6.10

平田オリザ氏の話をラジオで聞いて、図書館に行って、気持ちにフタをしていたことに、気がつきました。

緊急事態宣言で、図書館まで完全に閉鎖されてしまった

不思議なテレビ画面 「AC元年」が始まる予感の形


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