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個別の召命について

 修道院を辞めて約3年が経った。
 昨日、友人に修道院での生活が辛かったという話をし、友人から「辛かったねぇ。」と声をかけてもらった。
 その友人も神学校に入っていて辞めた背景があり、教会の古い慣習の中で自分を見失った経験があった。
 これを期に、私自身の召命を改めて振り返って見たいと思う。ちょうど、辞める識別をした時にシスター達に書いた手紙があるのでそれを公開することにする。
※性暴力についての箇所があります。


2020年12月 識別の恵みについて 

愛する皆様

 この度、識別の黙想を終え、私は〇〇会の志願者を辞めることを選びましたことをここにお伝え致します。
 準志願期を含め約1年間、各共同体の皆様の祈りに支えられ、〇〇会で過ごすことができたことを本当に感謝しております。
 皆様のお祈り、お手紙、滞在させていただいた東京と南相馬の共同体での皆様の笑顔、お心遣い、シスター方から頂いた愛は、私に居場所を与えて下さいました。

 私の召命について、ここに2020年12月5日~9日の識別の黙想で明らかになったことを2つ書きます。
 このことを詳しく人に申し上げるのは、非常に勇気を必要としています。シスター方と主に信頼して開示致しますので、どうか心を開いてお読み頂けますと幸いです。

 まず、一つめは私のセクシュアリティについてです。
 私は、いわゆるヘテロ・シス女性ではありません。(言葉が分からなければ、是非調べてみて下さい。)私の性的指向は、両性愛で、男性も女性も(あるいはその他も)好きになる性質を持っています。そして、性自認は男性でも女性でもなく、ノンバイナリーな性を持っています。学校や教会、修道院の中では周囲の差別とステレオタイプの思い込みが強いので、つまづきを避けるために"女性っぽく"振る舞うことがありますが、それは自分らしいとは言えません。
 私にとって、"ヘテロ・シス女性"として見られて過ごすことは、本当に苦痛です。自分を偽って演じなければ話を合わせられないからです。
 それでも、修道院で生活するまではそれほど困難に感じたことはありませんでした。別にカミングアウトしていた訳ではありませんが、友人や家族は、私を"ヘテロ・シス女性"としてではなく、ただ私を"私"として見てくれていたからです。
 私は、自分のセクシュアリティを特に珍しいこととも、他人と違っているとも思いません。人はそれぞれ違う性を与えられているのですから、私も"普通の人"なのです。
 ヘテロ・シスではないセクシュアリティを持っている人は、日本では10人に1人ぐらいの割合でいます。当たり前ですが、最近になって増えたとか、どこか限られた地域で発生したり、かたまって生息したりしている訳ではありません。
 ですから、修道会においても今までに居なかったはずはありません。セクシュアリティが召命の有無と関係がないということは、男子修道会の例を見ても分かります。ですが、本当に自分の修道会のメンバーには居ないと思うなら、それは今までセクシュアリティを理由に排除されてきた人がいるという事でしょう。
 召命を求めて修道会へ来る人の10人に1人ぐらいは、ヘテロ・シスとは異なるセクシュアリティを持っている可能性があり、たまたま私もその10人に1人だった、という話しです。

 教会や修道院は、多様な性という観点において非常に理解が貧しく、時に残酷なほど居づらい場所です。
 このことに悩みながら、この様に造られた私が修道生活へと呼ばれている意味を考える時、私は愛する教会がより福音的になっていくために自分を使うように招かれていると感じます。
 私たちの神は限りない豊かさを持つ方です。その豊かな多様性を私たち一人一人は似姿として体現しています。そして、私たちは互いに平等であり、それぞれが神の愛する民として尊重され、みんなが1つのものであるという真実への確信は、私だけのものではないはずです。

 二つめは性暴力の経験についてです。
 私は、以前付き合っていた恋人に性的な暴力を振るわれていました。彼はとても賢く、発想が豊かで魅力的な人でした。でも同時に反社会的な性格も併せ持っていて、社会のなかでよくみられる女性への差別と私のセクシュアリティへの差別が彼に暴力を正当化させてしまっていました。
 彼は、女性は男性の性的な求めに応じることが当たり前だと思っていて、尚且つ両性愛者は異性愛者よりも非常にセックスが好きなものだという偏見も持っていました。
 彼はいつも、私のことを"淫乱"だと言い、私の存在が彼をそうさせるのだと言って私を好きに犯しました。私が泣きながら「嫌だ、やめて。痛い。」と言っても、「そんなこと言わないでよ。これが好きなんでしょ。いやらしいヤツだな。」と言って、床や壁に押さえつけて1日に何度も犯しました。体に痣ができたり、膣が裂けて血が出ることもありました。
 ある時には、家に居座って私を軟禁し、学校にも行けず何日もセックスをさせられました。そういうときには、AVと同じことをするようにも求められ、悦んでいるように演じさせられました。
 またある時には、顔に落ちる彼の汗で目が覚め、見ると彼が異様な形相で私の上に覆い被さっていて、寝ている間に裸にされて犯されている最中だったということもありました。今でも、その時のショックと彼の汗、股間のぬるぬるとした不快な感触がまざまざとフラッシュバックすることがあります。
 私が彼を拒むと、彼は「こんな(憐れな)僕を放り出すなんて、君は本当にクリスチャンなのか?」、「酷いな。君はイカれてる。オカシイよ。」、「僕を受け入れてくれることに愛を感じるんだ。僕を愛していないのか?」と言って私を責め、また「君と居られて幸せだ。大好きだよ。僕を捨てないでね。」と言って私をコントロールしていました。
 殴られることはありませんでしたが、彼は190㎝近い長身の筋肉質な体つきで、50㎏以上ある私の体を片手で持ち上げることができました。体を掴まれればもう身動きはできないし、押さえつけられれば骨が軋みました。彼にはその体格差だけで、私に恐怖感と緊張感を与えるには十分だったのです。
 そして、私はそれ以上傷つかないために抵抗することを諦めるようになっていきました。今思えば、彼にとって私はただの穴のついた人形にすぎず、この時の私の心と体は彼の奴隷の様になっていました。
 私は以前からこう言ったことがデートDVであることを知っていましたけれど、それでも彼を嫌いになったり、彼から離れたりすることはできず、むしろ神様は私を通して彼に何を伝えたいのか、どうしたら私はもっと彼を愛せるのかと悩み、耐え忍んでいました。もちろん、責められるかもしれないと思うと、教会の人に相談するなどということは考えもしませんでした。

 私の中の暴力の傷は、例えて言うなら、とても綺麗に描けた絵があって、気に入って飾っていたら心ない誰かが落書きをして絵をめちゃめちゃにしてしまったようなモノです。一生懸命直そうとしても、元の通りにはならなくて、もういっそ絵を燃やして無かったことにしたくなります。
 でも、私と共にいてくださるイエスは、「酷いことをするヤツがいたもんだ。許せないね。でも、直した絵は前よりももっと素敵になったよ!今のが一番好きだよ!」と、励まし、愛を伝えてくれます。いつも、私の心に直接に、そして周りの人を通して、傷つきもがいた私を抱き締めてくれています。だから私は、今の自分が輝いているのを知っているし、この傷を抱えているのが今の自分だと言えるのです。

 でも、時々後遺症として、"自分が無価値で汚ならしいゴミクズの様だ"という感覚が影を落とします。
 周りの人から与えられる無意識な言葉や、社会の無関心、差別によってこの後遺症が悪化していくのです。
 「そんなの大したことじゃない。早く忘れなよ。」、「本当にそんなことがあったの?嘘か、大袈裟に言ってるだけじゃないの?」、「加害者も悪いけど、被害者にも責任はあるよね。」、「当人たちにしか分からない問題だよね。」、「なんで、もっと嫌だって言わなかったの?」、「なんで、誰かに相談しなかったの?」、「私だったら耐えられないわ!」、「イタズラされて妊娠しても、ちゃんと生んで育てるべきよね。子供に罪はないもの。」、「傷ついちゃったんだね。でも、それがあってよかったと思えるようになるよ。」、「イエス様のことは信じてるんでしょ?癒されたくないの?」、「自分の罪についてはどう思うの?」、、、。
 レイプされた傷だけでなく、こうした言葉に日々あらゆる場面で、自分の選択を否定され傷つきます。でも、被害者である私のこうした傷つきは決して自分のための傷つきではありません。私の様に傷つき、日々戦いながら生きている他の人たちのための傷つきでもあるのです。

 私の性暴力の経験は、私のセクシュアリティへの差別も大きく関わっていますが、これは私に限ったことではありません。私と似たセクシュアリティの人は、「2人に1人がレイプされたことがある」というデータもあります。
 私と似たセクシュアリティの人は、日本では"伊藤さん"という名字の人と同じぐらいいると言われています。もし、教会に"伊藤さん"が2人居れば、その内一方はレイプされたことがあるかもしれないということです。それも、"伊藤さん"だからという理由でです。どれだけ酷く、危険な状況が社会と教会の中で見落とされているかを分かっていただけるでしょうか?

 上に書いた言葉は、私が社会のなかで耳にし、また教会や修道会のなかでは非常に多く耳にする言葉です。このトピックスが、暴力を受けたことのない他の人たちにとってどれほど関心を惹くことかは分かりませんが、この問題に関わっていくことは私には自分の存在に関わる重要なことです。

 この性暴力の経験は私の十字架であり、私は傷ついた自分を他の人たちのために分かち合って行きたいという望みを持っています。
 今までは、この様に思い出すことも、言葉にすることも精神的に難しいことでしたが、黙想の時、これらの事が落ち着きの中で自然と出てきたことを聖霊に感謝しています。

 セクシュアリティのこと、性暴力のこと、この二つの特性から、私が修道院で暮らすことには、現実的にとても難しさがあると思います。でも、私が〇〇会で過ごした日々は私の修道生活への望みを一層強めるものでした。
 居づらさがあっても、シスター方へのいとおしさは増し、シスター方お一人お一人の修道者としての姿に憧れを感じました。〇〇会の愛するシスター方とこれからも生活を共にできたなら、どんなに楽しいだろうかと思います。

 しかし識別の中で、先に述べたような召命を主は私の中に照らし出して下さいました。このことに従順に生きたいのです。私が私らしくいられる場所、私の召命を生きられる場所を探す必要があります。

 とにかく、この手紙でお伝えしたかったのは、私が〇〇会のシスター方を愛していると言うことです。
 たとえどこにいても、あなた方のことを想っています。
 修道者として、キリスト者として、私たちは1つであり、皆が同じ方向に向いて歩んでいることをとても心強く思います。共に神と人に仕え、マリアのようにまっすぐに主に向いて歩む兄弟姉妹として、私たちが互いに与えられていることを感謝しています。

 いつも共にいてくださる主が、私たちの歩みを支えて下さいますように。

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