背景は本当に"そこ"じゃないとダメ?
こういうことを書くと「極論過ぎ」「過敏」「神経質過ぎ」「不寛容」とか言われるんだろうなと思うけど、私の正直な考えだから書いてみる。
私はある集合住宅の2階に住んでいて、私の居室は車が1台通れる細い道路に面している。その道で声を出す人の存在・生き方・考え方が、私はとても気になる。
その道で声を出す人は、親子だったり、子ども同士だったり、その道に面している一軒家に住んでいる一家の人だったり、近くのコンビニを利用した後にその道にたむろする若者だったり、その道で携帯電話を利用して話しつづける人だったり、様々。
ちなみにその道から徒歩数十秒のところに公園がある。
だから私は「この道で話すくらいなら公園に行けば良いのに」と思う。
公園で遊んだりはしゃいだり話したりするのは全然気にならない。子どもは公園で思いっきり(安全に、他人を不当に害さないように注意はして)遊べば良い。
だから、公園でちゃんと遊んで、道では静かにしたらいいのに、と思う。
住宅街の道路は、誰もいないように見えても、その道に面している家々の中に人がいる。道で出した声や音は家の中にすごく響く。
朝や昼は夜勤で疲れて眠っている看護師さんや警備員さんなどが家の中にいるかもしれない。夕方も夜も、きっといろんな人が家の中にいる。
「道では静かにしている」ということを常識にして、多くの人の不幸は取り除かれるけど、「どうしようもなく不幸になる人」はほぼいないと思う。
「子どもに静かにしろと言うなんて可哀想」と言う人が出てくるだろうけど、「道路で声を出すこと」が子ども時代にできなくなっただけで、そんなに不幸になる?
「ここでは思いっきり声を出していいよ、ここでは静かにしていようね」という区別を教育されることは、そんなに不幸なこと?
私は高校生の時にある場所で大声を出してしまって、30歳を過ぎた今もその時の自分の愚かさをふと思い出して苦悩することがある。高校生にもなってそんな愚かなことをしたのは、親が私にほとんど教育をほどこさなかったため&それゆえ認知の歪みがあったため。
「親がきちんと私を教育してくれていたら、私はあの時大声を出すこともなく、今こうやって苦悩することもなかったんだろうな」と思う。
だから私は「子どもをどこででも自由にさせること」よりも「子どもにきちんと教育を与えること」の方が子どもを幸せにできると確信している。
「道でも気にせず声を出していいよ。気にする方が悪い」という社会にするより、「道では静かにしていようね」という社会にした方が、子どもも別に不幸にならないし、夜勤の人たちも幸せになれるし、全体の幸福度が上がると思う。
どうしても道で声を出したいなら交通量の多い(常に他のいろんな音がしている)道で出せば良い。
どの道をいつ通るかは歩く側が選べるし、それは1日のうちのほんの数分〜数時間。
でも道に面した家に住んでいる人は、いつ「声を出す人」が通るかなんてわからない。だから「声が嫌ならイヤホンでもしてろ」と言われたら、家にいる間ずっとイヤホンをつけていないといけなくなる。でも「道では大人も子どもも静かにしましょう」というのは、声を出したいなら声を出すのにふさわしい場所に行くことを勧めることであって、1日中どこでも声を出してはいけませんということではない。
幸不幸のバランスを考えたら「道では静かにしていましょう」の方が絶対に全体的に幸福度が上がると私は思う。
さらに、防犯にも役立つと私は考えている。
今の「道で声を出しても構わない。気にする方が神経過敏」という状態だと、道で「キャー!」という声が聞こえても「遊んでるだけだな」と思う。
「道では静かにしているのが普通」という社会になったら、声を出すのは異常なわけで、何らかの声が聞こえたら「何事だ?!」と犯罪や災害などの非常事態の可能性を考えられる。
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その「おしゃべり」の背景は、本当に「道路」じゃないとダメですか?
公園やカフェじゃダメですか?
背景が「道路」じゃなくなると、それだけで取り返しのつかないような不幸になりますか?
家を一歩出たら、そこはもう「あなた達の場所」ではなく、「みんなの場所」なのです。
道で声を出して怒られることはあっても、声を出さずに道を通ったことで「声を出して通れ!」と怒られることは、特殊な場合を除いてありません。
他人に触られて嫌な思いをする人はいるけど、他人に触られて喜ぶ人は特殊な場合(救命活動など)を除いてなかなかいません。だから痴漢は犯罪になるのです。
それと同じように考えられませんか?
-miinyan-