トマト苦手なのに、サラダを頼んでしまった。食べますとも🍅
のは、いつからだろう。 上手く言葉に出来ないが、自分の人生を歩んでいる感覚があまりない。喜びや悲しみは勿論感じられることは出来る。だけれどどこか他人事に感じる。人に優しくなりたいのに、人に対して興味が持てないから心の底から思いやることが出来ない。こんな人生に正解不正解はないことは重々承知している。泣きたいときも理由を無理やり付けて泣いている気がする。泣くことに理由なんて必要ないはずなのに。この偽物に感じる感覚を言葉にしようとすればするほど私の頭の中から言葉が抜け落ちていく。
「家族は大事」 「家族を大切に」 昔からそう言われてきたし社会にそう刷り込みされて来た。自分自身も家族はそういうものだと疑問も抱かずに生きていた。 でもそれは誰が決めたんだろう。 確かに父と母が結婚して今の自分が居るし、父は亡くなったけどこうして然程金銭面で苦労して生きてはいない。( 母親をはじめ祖父母や親戚が働き、サポートしてくれたからだということは承知している。 ) それらを感謝せずに生きていくことは不可能だろう。分かってる、もうちゃんと分かっているけれど数年前から
12月10日 22歳になった。 もう生きて20年以上も経ったのか、と最初に思った。0時になる瞬間は恋人と電話しながら迎えたけれどラインの通知は0。昔は通知が結構来ていたけれどここ数年はぽっきり。まあ、でも悪くないかもしれない。 人に誕生日を祝ってもらうのが何処となく苦手というか「自分、産まれましたよ〜」とSNSで匂わせるのが苦手かもしれない。お祝い乞食な感じがして一歩引いてしまう。けれど今年は誕生日迎えたよ、と呟いてみた。そしたらフォロワーさんや友達からお祝いのリプライが来
昔からそうだ。出さないより出し方を知らない。美味しいものを食べた時や面白いものをみた時は笑顔になれている。多分。 なんで顔に出せないのかと思ってネットで調べたら大半が「親子関係が希薄」「親とコミュニケーション不足」。あながち間違ってはいない。確かに感情を顔に出すのが大事な時期に母親とあまりコミュニケーションを取れていなかったというか、我慢せざるを得なかった。自分が2〜3歳の頃に父親が倒れて看病に付きっきりだったから。それは仕方がないことだし妻としての仕事を全うしたし父親が亡
人生を送れば送るほど生き辛さを感じるけど 自分を許して、過去を許して、人を信頼して 生きていきたいな まだ"自分"を頑張りたい
「滸って馬鹿だなあ〜」 「滸って駄目だなあ〜」 気がつくとずっとこう言われて来たね 小さい頃から言われていたのか、小さい頃から 自分じゃない他の誰かを演じるようになったね 「滸」じゃ無かったら、って思ってたのかな 母親は不器用だとようやく気付けたね 褒めるのがきっと苦手なんだろうね 愛されてない訳ではないって信じたいよ 貶されて来たから気がつくと自己肯定感が 低く育ってしまったね 本当の自分も分からない、 誰かを演じることで幸せを感じてしまったね 自分が無い
自分は自分だって分かってるけど誰かになりたいし全てを放して無になりたい
物事に感謝の気持ちを持った方がよりその物事を見つめ、愛せる気がする
「自分はインキャだ」って思い続けてきた。 実際インキャだとは思うけどふと自分が貼り付けただけのレッテルなのではないかと思った。 インキャだから考えが捻くれてていい、インキャだから物事を前向きに考えなくていい、インキャだから考え方がねちっこくていい…etc 誰がそんなことを決めた?自分が勝手に貼り付けたレッテルに自分が苦しめられてないか?「インキャだからこうあるべき」って考えて人のことを素直に応援出来なかったりしてないか? インキャとかインキャじゃないとか、そんなのどう
幸せになる勇気
無になる、って出来るのかな。 人に評価されたいとか、よく見られたいが故の行動を考えるのを辞めたい。誰かと比べて自分の方が不幸だと底なし沼みたいにズブズブ不幸せな方を選ぶ考え方も。憧れてる人物になりきって生きようとする癖も。世界を殺意高めで睨みつける癖も。自分以外の全て敵だとかいう考え方も。家族間の難しい問題とか、死についてとか、全てを手放したい。 全てが無になった状態で、ありのままの、心が裸のままの感情で生きていたい。 この感情は他の人も持つのかな、と思ってた時ある一冊
昔からよく人に憧れる気持ちを抱く方だったと思う。 その人になりたくて行動や考え方、仕草を真似する。 真似をするというか、その人になりきって生きる。 昔からそういった生き方をし続けていたし、誰かを真似することによって自分が他の人になれたようでイキイキとした気持ちになったりもした。 そういう生き方をして20年と少し。本来の自分がどんな者なのかわからなくなった。「こういう場面に直面したらあの人はどう考えるか」「ここからあそこへ行く時あの人だったらどう動くか」そういう考え方を無意
「滸って優しいね」 って言ってもらえることがある。そう言ってくれるみんなの方が優しいと思うんだけどってよく思う。「優しい」って何?1番理解できない感情だ。 自転車をなぎ倒してしまった知らない人の手助けをする、電車で席を譲る、デパートのドアで後ろから来る人の為にドアを押さえておく。これらは全て優しいと思われる行動だと思う。中には「偽善だ」って言う人もいるかも知れないけどそう言う人が居ないというのが前提で話を進めたい。 自分もそういう人を見かけたら「優しい」「気が効く人」だと
いやあ、無事テスト終わりました。 とりあえず滸の夏休みは始まります。 ハッチャケてこうぜ!!!!!!!!!花火やろうぜ!!!!!!!!!!!!BBQは…いいや。家で肉焼いて食べよ。 テストも終え、「そうだ、推しを見よう。」となってYouTubeなりTwitterなりを見てムホムホしてました。(キモ・オタク)滸は最近ビジュアル系バンドの方々にハマっており、皆さんのメイクを見て「こういうの、自分もやってみたい」と思い、見よう見まねでやってみました。 普段の滸メイクはコンシーラ
ミッツ 。マングローブ。 テストが明日でようやく終わる。 いや〜〜長かった!と思う!!先々週からテストだぞオラァみたいな雰囲気が教室に漂っててつらぽだったけどそれも明日で終わる…!テスト期間中に地元へ帰ったりドタバタしてたけど楽しむ事は忘れなかったはず。 楽しむ事=人生の使命と、少なからず自分はそう思ってます。インキャが何言ってんの!キショ!オメーの席ねえから!!となる人もいるでしょうサイトを閉じろ。 たしかに滸はインキャの部類に入るかもしれないけど楽しさが顔に出て