優しいって言われたくない
「滸って優しいね」
って言ってもらえることがある。そう言ってくれるみんなの方が優しいと思うんだけどってよく思う。「優しい」って何?1番理解できない感情だ。
自転車をなぎ倒してしまった知らない人の手助けをする、電車で席を譲る、デパートのドアで後ろから来る人の為にドアを押さえておく。これらは全て優しいと思われる行動だと思う。中には「偽善だ」って言う人もいるかも知れないけどそう言う人が居ないというのが前提で話を進めたい。
自分もそういう人を見かけたら「優しい」「気が効く人」だと思う。そういう人って心の中も優しいのかな。朝の賑わう駅で知らん人にど突かれても「急いでいたんだな」って割り切れるのかな。
滸の中の「優しい人」は常に周りが見えていて、言葉遣いも綺麗で、上手くサポート出来る人だと思う。本当に無意識で動いてる人。自分の友達にもいる。よくそんなに色んなところを注視出来るなって思う。自分は割と自己中心的な考えが元々植え付けられているから自分が人の為にと思って取る行動がどうしても本能で動いてるとは思えない。どこかしらの下心がある。「こうしたらこの子は喜んでくれる」「ここでこうしたら褒めてもらえるだろう」とか思ってる。心の奥底からの善意じゃない。どうしても汚い感情(=下心)があって、そんな自分は汚いと思う。だから「優しい」って言われることが嫌いなんだ。純度100%の優しさじゃないから。自分の行動は薄汚れて汚いのに、何で他人の優しさ故の行動はあんなに輝いて見えるんだろう。それはそもそも自分が汚れてるのかと思うほど。でも、もしかしたら他人も友達も家族も下心マックスでそういう行動を取っているのかもしれない。でも見る限りでは無意識で動いてると思う。いいな、羨ましい。
前に優しいって言われたくなさすぎてネットで「優しいと言われたくない」と検索したことがある。(かなりの捻くれ者…)そこでヒットしたサイトに「優しいと思われる行動は貴方の愛が見えた瞬間でもある」みたいなことが書いてあった気がする。それを読んだ時は目から鱗がぼろぼろ出た。そんな考え方もあるんけ!ってなった。その文章に救われて、数週間は純度が割と高めの無意識のうちに気遣いをしていた、はず。でしゃばってなければ。でも、結局は自分の汚さは想像以上でみるみるうちに下心のある汚い優しさが充満していた。これはもしかしたら自分にしか分からないのかもしれないけど、明らかに汚かった。その汚さが加速して今日(昨日か)、大事な人を中途半端な優しさで傷付けた。
そこでやっと気付けた。自分の行動は下心があってその上での「優しい」と思われる行動を取ることが嫌いなんじゃなくて、自分自身そのものが嫌いだったって事。結局自己中心的で、自分の良いように進むように仕向けるそんな人間なんだと理解した。いや、理解せざるを得なかった。
こんな汚い人間になってしまったんだろう。ただ優しく、楽しむ気持ちを忘れないでいたかっただけなのに。多分自分の理想像を押し付けすぎて崩れたんだろうな。前もそんな事があった。自分の理想を自分に押し付けて、まだ自分という土台すら出来てもいないのに無理やり押し付けて崩れて。
本当はこんなにも汚い自分を「優しい」って言ってくる人は嫌だ。でも1番嫌なのは自分自身だった。明日はこの感情が少しでもマシになっていますように、おやすみなさい。
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