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【一首評】朝の八百屋できみと水菜を買いたいな絶望はいつだって単純だ(初谷むい)

朝の八百屋できみと水菜を買いたいな絶望はいつだって単純だ
/初谷むい
(『朝になっちゃうね#01』)

「絶望はいつだって単純だ」に対して、ほんとうに?と思う。複雑な絶望は存在しないの?と。

「朝の八百屋できみと水菜を買いたいな」は希望だと思うけれど、これはかなり複雑だと思う。夜でもいいし、コンビニでもいいし、一人ででもいいし、牛乳でもいいし、投げたいなでもいい。あらゆる希望がありうる世界で、複雑に条件を指定して、たった一つの希望が浮かびあがる。

だから反対に、希望が複雑であるのと同じだけ、絶望も複雑なのではないか?

「朝の八百屋できみと水菜を買いたい」のに、朝起きられなくてできない、八百屋がなくてできない、きみがいなくてできない、水菜が売っていなくてできない、お金がなくてできない。いろいろな絶望がありうるのでは?と思う。

というところまで考えて、いや、やっぱり「絶望はいつだって単純だ」と思い直す。希望が複雑なのは、希望が絶対的なものだからなのだと気づく。逆に言うと、絶望は相対的なものだから、単純だ。

絶望は希望に対するもので、「朝の八百屋できみと水菜を買いたいな」という複雑な希望が叶わないという、その一点だけが問題になる。なぜ叶わないか、どう叶わないか、ということはどうでもいいし、そこに複雑さは見出されない。より正確に言えば、複雑な絶望は存在しうるかもしれないけれど、それは常にただ叶わないという単純な形で立ち現れるものなのだろう。

絶望の話をしているにもかかわらず、この歌全体としてはそこまで暗い印象に落ち込まない。前半部分のモチーフの瑞々しさが貢献しているのは言うまでもないことだけれど、「買いたいな」の後に一字あけをはさまない点にも注目したい。

朝の八百屋できみと水菜を買いたいな 絶望はいつだって単純だ
/改作

一字あけをはさむと、こう。改作後は、希望を言い終わった後それを受けて絶望について言い始める、という感じが強くなってしまう。一字あけ無しで、希望について言い終わるか終わらないかのタイミングで少し早口に言い始めるからこそ、この歌の「絶望」を真に受けなくて済む。そして、この歌の「絶望」を真に受けなくて済むからこそ、真の絶望にまで到達することができる。

(森)

#短歌 #tanka

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