【一首評】風靡する いいね、わたしもいちめんのすすきヶ原で風靡されたい(岐阜亮司)

風靡する いいね、わたしもいちめんのすすきヶ原で風靡されたい
/岐阜亮司「感情の訓練」(『ポストシェアハウス 1号』)

まずは、辞書を引く。

ふうび【風靡】(名)スル
風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。 「一世を-する」
(『スーパー大辞林』)

そういう意味があるんだなあ、と思う。正確には、聞いたことはあったので、そういう意味があったよねえ、と思う。

辞書の解説では既に、風が草木をなびかせるというくだりは喩えとしてしか触れられなくなっているけれど、そのことを「風靡する」と表現することも当然できるだろう。(ちなみに、なびくを漢字で書くと、靡く。)

この歌は、ふだん使う「風靡する」と、その奥にある原義に近い「風靡する」とのそれぞれの意味をレイヤーのように重ね合わせて、一つのイメージを構成している。一種類の動詞だけでも、世界に立体感がでる。

ところで、この歌の「わたし」をどう読んだだろうか。具体的には、「わたし」は作中主体であるか、そうでないか。

他者の「風靡する」という(文字を書いたとかそういうものも含めた広義の)発話に反応して、作中主体が「いいね、〜」と発話していると読むことができる。

一方で、主体の、もしくは他者の「風靡する」という発話に反応して、別の他者が「いいね、〜」と発話していると読むこともできる。

読みが割れうるところだと思うけれど、ここでは、後者を支持しようと思う。

地の文のような「風靡する」と、人が人に話しているような「いいね、〜」が並んでいると、「いいね、〜」の部分はかぎかっこの中に入れて読むことになる。短歌はそもそも何もなくても作者、ないし作中主体が話しているということが暗に前提される形式だから、地の文が登場した時点でそれは作者、ないし作中主体の発話だと認識される。そしてそのあとに登場する別の種類の発話は、それを受けた発話だと認識される。「いいね、わたしも〜」という話し方が、話しかける相手の存在を感じさせる点を含めて考えると(つまり作中主体がひとりごとを言っているのではなさそうだと考えると)、「わたし」は作中主体でないのだと思う。

こういう仕組みを意識してかどうかはわからないけれども、そしてこの読みが多数派かどうかもわからないけれども、「いいね、わたしも」と近い距離感で言ってくる他者を自然なかたちで出現させるところに、作者の技量があると思う。

最後に、「風靡する」という言葉がもたらす体験について。最初に辞書で確認した通り、「風靡する」には「風が草木をなびかせる」という意味がある。「なびかせる」は、自動詞の「なびく」が使役の形になったもの。「風靡する」はもちろん他動詞。「風靡する」と「なびかせる」では同じことを書いているようで、最初に基準になる存在が違う。

この違いは、この歌に出てくる形にしたときにはっきり現れると思う。「風靡されたい」とするところを「なびかされたい」とすると、そもそも「なびく」というのが自動詞であるせいで、少し気持ち悪い。「風靡されたい」では起こらないぐらつきだと思う。こういうところにも、他動詞「風靡する」の効果がある。

(森)

#短歌 #tanka

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