【一首評】地球から地球儀になるまでのどこかの私たちがぎりぎり住める星(我妻俊樹)
地球から地球儀になるまでのどこかの私たちがぎりぎり住める星
/我妻俊樹「ある県立」(『足の踏み場、象の墓場』)
地球を、地球儀へと変形させる。たとえば、左端を100%地球で、右端を100%地球儀として、スライダーのつまみを左から右へとゆっくり動かしてゆくような。
この変化において、本質的なものは何か。この歌は、「私たち」が住めるかどうか、を問題にしている。「私たち」は、日本人かもしれないし、人類かもしれないし、動物かもしれないし、生命かもしれない。さまざまなレンジがありうる「私たち」ではあるけれど、主体にとっては「私」を含むなんらかの集団が「住める」かどうかが、地球/地球儀の変化において最も注目すべきところであることはわかる。
そんな臨界点を想像することに、どんな意味があるのだろう。もちろん意味がなくてもいいのだけれど、あえて意味を見出すならば、地球という星の豊かさが意識される、ということに思い当たる。今の地球は私たちにとって「ぎりぎり」ではない。「ぎりぎり」はまだ「どこか」でしかない。地球を「地球儀」という物体にデフォルメして、仮想するという行為の中で、私たちを住まわす「地球」という星を真剣に見つめることになる。
地球儀は地球をもとに作られている。「もとに」というのは、モデルに、ということだけれど、よく考えれば、材料に、ということでもある。地球儀を作るとき、その材料はまぎれもなく地球の一部である。
(森)