【一首評】たれさがるピザのチーズを口と手で受け止められたら会話みたいだ(相田奈緒)
たれさがるピザのチーズを口と手で受け止められたら会話みたいだ
/相田奈緒「珠と珠」
「たれさがるピザのチーズを口と手で受け止め」ること、を想像することは難しくない。服や床を汚すまいと、あるいは食べ物を無駄にすまいと、一生懸命になって落下を防ぐ。きっとそんな経験は、「ピザのチーズ」ではないにしても誰もが何かしらもっているのではないかと思う(シュークリームのクリームとか)。
でもそれを、「会話みたいだ」と言うのは、少し不思議に感じる。「たれさがるピザのチーズを口と手で受け止め」ることにそれ以上の何かを読み込むのはおそらく得策ではなくて、この不思議さを引き起こすのは、主体にとっての「会話」の在り方なのだろうということになる。
この主体にとって「会話」は、不格好でもなんでも、あらゆる仕方でもって落下を防ぐような、向こうから来るものをこちらが溢さないように受容するもの、としてあるのだろう。
さて、問題にしたいのは、「受け止められたら」の可能の助動詞だ。受け止めるのは会話みたいだ、ではなく「受け止められたら会話みたいだ」であるのはなぜか。それは、会話にならなかった、もしくは、会話にすることができなかったコミュニケーション(コミュニケーションと呼ぶべきかはわからないが)のことを同時に思っているからだろう。
受け止められたピザのチーズを言うとき、同時に、受け止められなかったピザのチーズを言うことになる。主体にとって会話は、必ず成功したものであって、失敗したものは会話とみなされない。成功/失敗の判定を常にともなう主体にとっての「会話」の在り方を、「られたら」という言葉がほんのりと示唆するところに、この歌の読みどころがある。
(森)