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敏感さと鈍感さ、どちらの方が生きやすいか?

耳が遠いと長生きするという。
神経質は短命。

真実でもあり嘘でもある。寿命は生き様だ。
ストレスを物ともしない強靭な精神、健やかな肉体。素晴らしい、素人目に見ても長生きする人物だ。私は虚弱体質に脆い心。糖尿病と癌の発生リスクの高い遺伝子。人生100年時代と言われても、健康格差もあるのだからピンとこない。

ヒトは細胞と微生物の寄せ集めだ。生まれ落ちてから刻々と死に向かう生き物。年を重ねるごとに体内の細胞と微生物の数は減っていく。ストレスがかかっても数を減らす。

ストレスに弱いのは”私”じゃない。体内の者どもなのだ。


私は食べ物の好き嫌いがほぼない大人だけど、子どもの頃、菓子パンが苦手だった。食の知識もないのに口に含んだそれを体が欲してないと感じていた。子どもの頃の朝ごはんは、いつも菓子パンとオレンジジュース。少し食べ、親に見つからないようにこっそり捨てていた。

見つかる恐怖と食べ物を捨てる罪悪感。
大人になってからも、私の心にこびりつく古びた気持ちの残りカス。

専門大学を卒業した菓子作りのプロにその話をした際「子どもには多いよ。舌がバカになってないから」とあっさり答えを出され、長年の罪悪感が消えた。

「小麦粉にも種類がある。実は雑菌まみれだったりもするし。質の悪い小麦粉。バターよりも安価なマーガリン。もちろん、素材を生かすためのレシピと焼き方なら美味しいよ。でも、ごまかすための材料ならすぐわかる、プロはもちろん、子どもの舌なら。『舌が肥える』というけど、多くの人の場合、生きていれば『舌は貧しくなる』もんなんだよ」

敏感であることは、防衛本能だ。
物の良し悪しがわかる”敏感さ”は本来、体を守る力なのだ。


けれど四六時中、防衛本能を働かせていたら体がもたないし、同調すべき社会から浮いてしまう。ますます防衛本能を過敏にさせる悪循環に繋がりかねない。

だから私たちは、この世界で生きていくために自分たちを鈍化していく


1.”生きづらさ”=「敏感さ」なのか?

私たちは自然と社会の中で生きている。

自律神経がいかれている私は、気圧で体調が左右される。気分が落ちれば雨が降る。逆も然り。晴天の日にはテンションが高くなる。「天気の子」だ。

森で育った私の恋人は、都会に憧れて東京に来た田舎者だが、残念ながらその体は東京と相性がすこぶる悪い。雑多なビル街の騒音に耳が耐えられず頭痛。広告や統一のない色の氾濫で眼球は痛み、吐き気を覚える。常にお腹を壊し、デート中も少なくとも3回は姿を消す。
神経質で潔癖気味。彼の料理では、食材は几帳面に切り刻まれている。物が整理されないとイライラしだす。こだわりが強く、敏感肌用の素材で下着から服まで揃え、同じものを2〜4着揃えている。

なんというか、一緒にいるなら鈍感な人の方が楽だ。
敏感な人は何かと面倒くさい。こちらが合わせないと一緒にいられない。

彼は、前近代的な体なのだ。
映画館で耳栓をしている時もある。眠る時は少しの光も許さない。モデムやエアコンも黒いテープが貼られている。物音も然り。上の階の住人が知人だから良かったものの、定期的にドアを叩いて苦情を伝えている。
森で一人暮らしをするにはぴったりの体なのに、都会の男への憧れがなくならないから、窮屈な思いで理想の暮らしを送っている。

繊細な彼だからこそ、趣味の写真は繊細だけど力強く美しい。

「ひといちばい繊細な人」のことを「Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)」と呼ぶ。

【Depth of processing】考え方が複雑で、深く考えてから行動する
一を聞いて、十のことを想像し、考えられる
調べ物をはじめると深く掘り下げ、その知識の広さを周りに驚かれる
お世辞や嘲笑をすぐに見抜いてしまう
物事を始めるまでにあれこれ考え、時間がかかる
その場限りの快楽よりも、生き方や哲学的なものごとに興味があり、浅い人間や話しが嫌い

【Overstimulation】刺激に敏感で疲れやすい
人混みや大きな音が苦手
友達との時間は楽しいものの、気疲れしやすく帰宅すると、どっと疲れている
映画や音楽、本などの芸術作品に感動して泣く
人の些細な言葉に傷つき、いつまでも忘れられない
些細なことに過剰なほど驚いてしまう

【Empathy and emotional responsiveness】人の気持ちに振り回されやすく、共感しやすい
人が怒られていると自分のことのように感じ、傷ついたり、お腹が痛くなったりする
悲しい映画や本などの登場人物に感情移入し、号泣する
人のちょっとした仕草、目線、声音などに敏感で、機嫌や思っていることがわかる
言葉を話せない幼児や動物の気持ちも察することができる

【Sensitivity to subtleties】あらゆる感覚がするどい
冷蔵庫の機械音や時計の音が気になってしまう
強い光や日光のまぶしさなどが苦手
近くにいる人の口臭やタバコの臭いで気分が悪くなる
カフェインや添加物に敏感に反応してしまう
肌着のタグなどチクチクする素材が我慢できないほど気になる
第六感がはたらき、よく当たる

お腹も強い都会育ちの私は「生きづらい体してるな〜」と他人事のように彼の敏感さを横目に「私は鈍くて良かった〜」と思っていた。

が、このリストを見れば、私のチェックは彼が当てはまる項目よりずっと多い。
Depth of processing:彼1つ、私全チェック
Overstimulation:彼2つ、私4つ
Empathy and emotional responsiveness:彼1つ、私全チェック
Sensitivity to subtleties:彼4つ、私4つ
セルフ診断テストでは、140点中、彼は93点(中)、私は116点(強)。

某シンジくんのパパのように手を組み、PCを見つめる。
実際のところ、HSPは病気でもないし判断がわりと厳しいらしく、HSPかどうかはあまり問題ではない。問題は「辛く苦しいと感じながら日々を送っていること」だ。HSPでも気楽に生きられるなら問題はないわけで、そうでないから厄介なのだ。

生きづらい体の彼はうまく順応して生きている。
ストレスは書き出し、対処する。できないものは見なかったふり。サングラス。耳栓。帽子。サプリメントの利用。マイペースな生き方。ひとりでリラックスできる時間。お酒。お菓子etc.。

そう、順応できるかどうかが問題だ

私は、長いこと、この恋人を「アスペルガー」なのでは?と疑ってきた。幼少期から食材を立方体にしてからでないと食べられなかったというエピソード。共通の知人たちからも「ちょっと変わってるよね」と言われるKY。
愛すべき個性だけど、時には厄介で、私は長いこと苦しんだ(あまりに辛くてカッサンドラについての本すら読んだ)。本人に検査を頼んだこともあるが怒られた。「事実を確認して彼が問題と向き合ってくれたら私は救われる」と思ったけれど、彼を傷つける結果に終わった。

結果、私が彼に順応し、ずいぶんと楽になった。
私が少し譲れば、彼も少し譲ってくれるようになったからだ。

一人で生きるのに生きづらさを感じている人間は、二人で生きることも容易ではない。ましてや、その二人ともが生きづらい類の人間同士なら余計に。だから、関係性に対する生きづらさも同じ。生きやすくなるには順応する、それが重要なのかもしれない。


こうしてみると、HSPの特徴は本来、美点になり得るものが多い。
思慮深く優しい。この特徴のない人間って逆にこわくない?と思えるほど。
でも何事も塩梅が大切で、ちょっと足りないくらいが生きやすい。

例えば、HSP特徴の最後の項目「第六感がはたらき、よく当たる」は、彼にはない私の得意技だ。「人のちょっとした仕草、目線、声音などに敏感で、機嫌や思っていることがわかる」「言葉を話せない幼児や動物の気持ちも察することができる」この2つの項目が当てはまるなら、勘のいい人だ。

毒親育ちはこうした特徴を持つ人が多いのだと思う。
親の機嫌を探ることに特化した子どもになるから。

彼や家族、友人などの隠し事や嘘はなんとなくわかる。鎌をかければ根拠が見つかる。私に対する思いの変化もなんとなく察することができる。そのうち「なんとなく嫌な予感がする」と感じれば、私が嫌がる出来事が起こっていたり起こったりする。自分を脅かすものへの洞察力が血肉になってしまったのだ。

勘がよくて、要らぬ不快感や悲しみが増える。
気づかなければ済むことなんていっぱいある。「花の色はうつりにけりないたづらに」と賢く気づいて憂うことをせずとも、パッパラパーに生きていた方がずっと楽しいはずだ。

他人も社会も私のものにはならない。

この社会・環境で傷つく体と心なら、そこから抜け出せばいい。
けれど、私の体さえ、支配しているのは細胞や微生物やら”私”自身ではないのだ。

どこへ行こうとも、誰といようとも、追ってくる”生きづらさ”の正体は何か。
”敏感”であり続けることは、順応への抵抗だ。
言い換えれば、鈍感になるというのは一種の順応だ。


2.生き延びるには鈍感さが必要。でも「生きる意味」には物足りない。

生き残るには「鈍感さ」が必要だ。
痛みや苦しみに「気づかない」に越したことはない。

毒親のもとでも立派な大人に成長した諸君。
祝福しよう。毒のおかげではなく、毒に犯されながらも生き延びる術を備えたあなたたちの素晴らしさを。

母からの暴力を受ける回数をいかに減らすか、子どもながらに試行錯誤した。「大した痛みじゃない」と思えるようになった年頃から、母は私を素手で殴ることをやめた。腕に爪を立てられて血が流れても無言で睨み返した。傷痕は今ものこっているけれど、私の「痛み」に届くものじゃない。
物で叩かれても物置部屋に監禁されても「大した苦じゃない」と思えば、母を疲れさせ、効果のなさを母に思い知らせることができた。

成人後も「恋人と別れろ」「結婚しろ」という理由でハンガーで叩かれたり、物を投げつけられることはあったけれど、軽蔑した目を向け続けるうちについに母の暴力は終わった。

鈍感さは鎧になる。
防御は最大の攻撃。

鈍感さによって手に入れたのは、私自身の「選択」だ。
暴力に対して「屈しない」という反抗を手に入れた。母のいない世界はどこまでも広く自由だ。鈍感さは、”私”から離れて視野を広げてくれる。好き嫌いを捨て去れば誰とでも友人になれる。質の良くない食べ物も衣服も、世界の豊かさが私に与えてくれる選択肢だ。騒音も人混みも、私をかき消し「誰でもない誰か」にしてくれる。

苦手なものも場所も、私が自由でなければ、享受できるものじゃない。

鈍感さによって世界の祝福を無差別に受け、喜びを覚える。
ジュブナイル小説の主人公が持つある種の鈍感さは、主人公たらしめる要素だ。だってそれはオールマイティの可能性を秘めている。こだわりがない/少ないということは、万人を愛し、万人に愛される素養でもあるのだから。

ある程度の鈍感さは”生きやすさ”を与えてくれる。

一方で気づくわけです。

”鈍感さ”は没個性的でもあることに。


3.敏感さ。それは”私”だ。

風を肌に感じる。緑の鮮やかさ。花の香り。太陽の光を浴び、体も心もほぐれていく。満たされ、生き返る感覚。ただの自然好きに限らず、実際に森へ行くと人間の脈拍数は正常値に戻るという実験もある。

私たちの体は”感じ取る”ために生きている。

わざわざ脳をちょっと大きくして、腰痛を代償に不格好な二足歩行になった進化形態にマストなのが五感。人間の構造は、五感を働かせてなんぼなのだ。感じずに生きるのは「お前はすでに死んでいる」と言っても過言ではないほど、人体に対してコスパの悪い生き方をしている。

だからなのか、感覚を使う行為は人間をリフレッシュさせてくれる。
多くの人は、睡眠以外の「自分をリセットする方法」を知っている(はず)。

私にとっては次の4つがそれだ。

①自然を感じる
②美術館へ行き、絵画を眺める
③好きな学者の本を読む
④楽器を触ったり絵を描く

美術館は本みたいだ。絵画というコンテンツをどう見せるのか、学芸員は空間というページを編集する。目次に従い、私たちは学芸員が見せようとする世界を旅し、画家の生き様や魂に触れる。
知識があればより楽しめる空間だろうけど、「空間」も「絵」も直感に訴える力がなければ人は立ち止まらない。どれほど名のある画家で評価の高い絵であっても、”私”に響かなければ立ち止まる必要なんてない。

引っかかる。

立ち止まった先に”私”がいる。鈍化させたはずの私の”敏感さ”を刺激する絵に、私は”私”を探すのだ。そこには私の”好き”が潜んでいる。筆のタッチ。置かれた色。モチーフ。

”敏感さ”は、私自身だ。

すごい本と出会うと体が震える。鼓動が激しくなり、落ち着くために本を閉じてウロウロ歩き回らなくてはいけない。しばらくしてから席に戻り、そっと本を開く。そのページまで汗ばんだ指先で紙をめくる。何度も文章を前後する。素直でない私が、印刷された機械的な文字の先にいる存在に、敬愛の念を抱く。

大学の先生に笑われて「恋したんだね」と言われた。

会ったこともなく住む世界も違う、生きてすらいない人。翻訳された文章は作家の文章のような美しさやロマンスもない。少し冷たささえある淡々とした文なのに、その向こうに激情がある。私の知らない使命感と執念、それを捻じ伏せる知性。私の好きな学者たちは、決まってルーツを調べるとユダヤ人というアイデンティティにいきつく。ユダヤ人としての苦しみを体験することなく故郷を捨てた人たちだ。彼らの紡ぐ理論は、遠いところから永遠に止むことのない哀歌が聞こえてくる。

”敏感さ”とは、そうした胸を刺す何かをとらえることだ。

誰しも”私”を押さえ込んで生きることなんて不可能だ。

だって、私はどうしようもなく感じるからだ。
どうしようもなくあれこれ考えてしまう。
満たされたい、満たしたいと望んでしまう。

楽器に触れることも絵を描くことも、上手い下手かかわらず、何かに没頭する作業は”私”から離れるものなのに、”私”を心の奥底から引き上げてくれる。

”敏感さ”は、鈍感でいるよりも、ずっとこの生を豊かにしてくれる。


4.敏感さと鈍感さ、どちらの方が生きやすいか?

結論から言えば、どっちも生きるうえで必要なものだ。
どちらも併せ持ち、うまく使い分ける器用さこそが「生きやすさ」につながる。

悟りを開くためにブッダは命がけで修行し、仙人は俗世を捨て山に篭った。
諦めがつかないから生きづらい。今は叶わない願いや望みがあるから苦しい。生きやすくなる術は「諦念」だ。捨て去れば楽になる!

変に持ってるから辛いのよ。全部捨てちゃいなさい!
仏様になってようやく到達できるレベルなんだから。

この偉大なる先人の知恵があまり良いアドバイスとして響かず、やれ敏感になりたいだのやれ鈍感になりたいだのと、周囲に振り回されながら私たちが思い悩むのは、誰かと互いに認め合いながら充実した人生を歩みたいから、なのかもしれない。

その形が人によっては「仕事」や「結婚」「家族」なのかもしれない。

敏感な人たちが持ち合わせた優れた能力は、誰のためにあるのか。
私自身を守るためのもの。
でもそれだけじゃない。

誰かと分かち合うために、私たちは自分たちの感性を磨いてきたのだ。
私たちは世界が美しいことを知っている。
傷つきやすく脆い心は、私たちが誠実に生きている証しだ。

私たちの「生きづらさ」は、誠実さの表れなのだ。
だから私は、私を深く愛せる。
慈しみをもって他者を愛せる。

現代社会を生き抜く「鈍感力」もいいけれど、社会に合わせず”自分らしさ”としてその「敏感力」を大切にしてもいいのだと思う。きっとあなたの優しさにどこかで誰かが救われているだろうから。

私自身を救ってくれる手はないかもしれない。
それでも、私は私自身を救えている。
愛が返ってくることに救われている。

のんびりと手放しながらも、大切なものだけ選りすぐって残していく。
自分に忠実に年を重ねていけば、豊かさだけが残る。

私たちは死に向かい歩み続ける生き物だ。
世界に抗いながらも世界を一身に感じて生きてきた人生なら。
その最期は、きっと愛に満ちている。

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