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阪神淡路大震災後の三宮一貫楼③

月曜は仕事(三宮一貫楼)ネタ

↑の記事のつづき

夜が早いが定説の神戸の街
その中で始めた深夜2時までの営業でしたが、

初日こそ散々な結果でしたが、
なんと1か月もしない間に満席になるという事態が起こりました。

それにはある転機があってのブレイクになります。

その転機とは?
平成9年は地震のため一時中断していた地下鉄海岸線の工事が再開していました。都心を走る地下鉄のため工事は深夜帯に行われます。

その労働者の方たちが、まずうちの営業を認識してくださいました。

すると口コミで労働者の方たちが大挙して来ていただけるようになり、お客様が入っている様子わかると入りやすくなるという好循環。

中が見えやすい造りの仮設店舗

当時は↑のような仮設店舗での営業でしたので中の様子が通り際で見えたのがよかったですね。(ただし暇だと逆効果になります)

深夜営業はやむにやまれぬ事情で始めたことですが、結果的に『神戸の夜は早い』の逆張りで敵が少なかったことも良きに振れました。
(違う機会になりますが、不思議とこういうことが多いのがうちの会社です)

労働者の方たちから始まった流れは、研修おわりの美容師さんや警備会社の社員さん、大丸で搬入が終わった催事業者の方にわれわれの同業者の方たちもよく利用してくれていました。

この頃にはメニューを絞ってというようなケチなことはせず、フルメニューでの対応となっていました。

そうなると先代と母だけの対応では間に合いません。

繁盛する様子を見て、有志の職人さんたちが交代で厨房とホールは母と私たち3兄弟が担うことになりました。通称夜番。。。

先代に関しては、職人のローテーションでお役御免となり、また新しいことを始めます。

営業時間が長くなって、お客様もたくさん来ていただけるようになったので、終盤のスープが足らなくなって水で伸ばすような日が増えていたので、工場で継ぎ足しのスープを早朝に炊くという仕事をやり始めたのです。

この深夜営業の売上ですが、通常営業の午後9時で一旦レジを閉めて9時から午前2時まで5時間営業で、一番売った記憶として月商500万円を記録したことがあります。

母の一念で店一軒を増やしたようなものですね。

あのエネルギーは今の自分では出すことができないと思います。
母は強しを実感する一番のエピソードかもしれません。

それでもまだまだ窮地はつづきます。
それはまた次の機会に。

(つづく)





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