深川怪談 詩人小池昌代のふるさと
深川という地名には独特の響きがある。
いまは、町名としてわずかに残されているだけだが、江戸由来のこの地名には、もはや担がれることのない深川富岡八幡宮の大神輿のような、畏怖に近い、触れてはならないものへの憧憬が、ことばの裏側に貼りついているように思うのだ。
詩人小池昌代の生家が、この深川木場にある。
正確には江東区平野だが、昭和三四年生まれの詩人は、深川という地名がふさわしい最後の世代と、言えるのかもしれない。
詩人には、私家版を除けばデビュー作となった詩集『水の町から歩き出して』がある。近年、ふるさと深川を舞台にした短編「私」小説集『幼年 水の町』を出している。どちらも「水」がキーワードになっている。
深川は、かつて水の町だった。
隅田川、小名木川、仙台掘川が縦横に流れ、掘割が町内を横切り、木場ともなると、材木を貯蔵する水中貯木場がそちこちに見られた。
かつて水は、下町の暮らしに、当たり前のようにそこにある「自然」として存在していた。
深川出身の文化人類学者、川田順三が、著書『母の声、川の匂い』(筑摩書房)で、小名木川河岸で育った昭和初期の頃の風景を書いている。
当時、生活の中に在る川は、著者が思い起こすと、蜆、弁慶蟹、ゆりかもめ、ときに猫の死骸だったりする。船の上で煮炊きする母親に背負われた、赤ん坊だったりもする。
赤ん坊は時に母親の手を離れ、川に落ち溺死した。河べりで遊ぶ子どもたちも、よく川に落ちた。生活と共にある川は、此岸と彼岸、生と死の「あわい」として、流れてもいる。
これもまた、下町深川の「自然」である。しかし、この下町独特の「自然」は、詩人の幼年時代から急速に失われていった。
詩人の祖父と父は、木場で材木問屋を営んでいた。「材木置き場は、子どもの頃のわたしの遊び場のひとつだった」と、詩人は書いている。
屋根のある建物だが、製材された材木を立てかけておくため、床はそのまま土が利用されている。見上げれば、室内だが、見下ろせば、室外。
~中略~
夏は、太陽を屋根がさえぎり、土も空気も、ひんやりとしていた。そこにしゃがみこんでなにをしていたかというと、石のようになっている黒土の凹凸を、指の先で、ぎしぎしと磨いていたのである。土は、その行為に応えるように、やがて無言のうちに鉄色に光りだす。それが、土の、言葉であった。
(「十の点描画」『小池昌代詩集』所収、現代詩文庫)
詩人のことばは、内と外、人工と自然の「あわい」の空間で、孤独な呪術のように、指先で引っ掻くようにして生み出される。
あるいは、書くことは、およそ手の届き得ない彼岸に、此岸から「橋」をかけるような行為なのかもしれない。
現代の江東区平野というと、木場はとうに新木場へと移転を完了し、水中貯木場があった土地は、都立木場公園、現代美術館へと変貌をとげた。
掘割は埋め立てられ遊歩道となり、川は、金属の柵とコンクリートで、人々の生活から遠ざけられた。
そんな現代でも、川で土座衛門が発見されるという。
『四谷怪談』のお岩が、神田川から隅田川に出て、小名木川へと直角にカーブして流れ込んだように、現代でも、家康の時代に造られた小名木川へと、流れ着くのだそうだ。
どんなに地上が変化しても、川の流れに、土地の記憶が刻印されているとでもいうように。
そんな川のアイロニーに、現代人はなかなか気づかない。時間がたって、ようやくマンションのベランダから発見され、ひと騒ぎになる。
ある鼎談で、作家で精神科医の春日武彦が、小池昌代の「ことばの届き得ない、中心の空白に向かって、空白のまわりに、ことばをめぐらすんです」という発言を受けて、「だからホラーになるのね」と嬉しそうに返していて、妙に納得してしまった。
それは、詩人のことばが、現代という時代に不意に現れる「お岩」のように、個人の原罪だけでなく、失ってしまったことへの共同体の罪意識「communal sin」を、時に呼び覚ますからだろうか。