今朝平遺跡 縄文のビーナス 80:空海と三角石
愛知県豊田市明川町(あすがわちょう)の大岩山神社から大岩山弘法大師に愛車で向かいました。といっても両施設の距離は30m以内ですが。
大岩山神社の鳥居前から南に向かうと、白地に「南無大師遍照金剛」と墨書された幟群が各所に見える場所に到達した。
「遍照金剛」とは世間に光を当てながら遍路した弘法大師のことを示している。
広場の西の端から東の山裾を眺望すると、巨石があちこちに点在する中に、山裾一の巨石の前に朱塗の柱と頭貫(かしらぬき)の目立つ建造物、他にこの施設でもっとも大きな建物、幟が立ち並ぶ登り階段が目立つ。
地面が白いのは人為的に白っぽい砂利が敷かれているためだ。
広場の西端に愛車を駐めて、階段に東に向かった。
階段の麓右脇の巨石の脇にここを開山した河合喜親氏による『明川の大岩山弘法の由来』が掲示されていた。
それによれば、この弘法さんは長年、山林の中に忘れられていたものだったが、河合氏が大病から九死に一生を得たことから、何か恩返ししたいと念じていたところ、この弘法さんのことを知り、平成21年に突然発願して、ここへの道をつけ、周囲を整備して、信仰の聖域としたものだという。
次に階段の左脇の巨石の前に設けられた朱塗の建造物に向かった。
この建物は銅板片流葺で側面に木板を張っただけの吹きっ放しの堂だった。
堂内の中央には自然の巨石が基壇として据えてあり、その上に銅像が奉られていた。
その銅像は遍路姿の弘法大師だった。
墨染(すみぞめ)の直綴(じきとつ:衣)、袈裟(けさ)、脚絆(きゃはん)を身に付け、草鞋(わらじ)を履き、編代笠(あじろがさ)を被り、首から頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、右手に金剛杖、左手に数珠を握っている姿だ。
両脇には花が生けられている。
階段を上って行くと、もっとも大きな建物は下記写真奥の庫裡(くり:寺務所をかねた台所)であることが判った。
上記写真右端に「弘法大師」と墨書きされた看板が掛かっているが、この奥には巨石の隙間に下記のような須弥壇(しゅみだん)が設けられていた。
その最上段には赤い座布団を敷いた弘法大師像が奉られていた。
庫裡脇の階段を上ると、須弥壇の裏面の巨石の上側に出た。
その巨石の脇を抜けて先に進むと三角と四角の巨石の間に石垣と床を敷き、トタン張り吹きっ放なしの鞘堂が(さやどう)設けられていた。
三角の巨石の前には板碑が6基の板碑と石碑が並んで奉られていた。
右から2基目の板碑(?)の前には複数の陶器製使いの狐像が置かれていた。
稲荷信仰と弘法大師を結ぶものは秦氏だが、秦氏には景教徒説があって、弘法大師も唐の長安に留学した際、大秦寺で景教にも接していると見られている。
大秦寺にいた信徒たちは弓月国( ゆずきのくに)から渡来した景教徒だったといわれており、それを証明する大秦景教流行碑が西安市の碑林博物館に収納されているという。
弓月国とは秦氏のルーツ説のある国だ。
大秦寺の僧、景浄(アダム)は長安に景教ネストリウス派のキリスト教が布教されていたことを大秦景教流行碑として残したのだが、その碑のレプリカが、明治期に『弘法大師と景教の関係』を著した英国人、E.A.ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられている。
大岩山弘法大師の稲荷社の背後の巨石の三角形は偶然ではないかもしれない。
弓月国の景教徒は初期にイスラエルを追われたユダヤ系キリスト教徒ではないかとも言われている。
そして、三角形はユダヤ教徒のシンボルである「ダビデの星」の構成要素だ。
板碑群の祀られた鞘堂前から、さらに山の峰を目指した。
人為的なものは板碑群鞘堂を最後に、通路も明確なものは見られなかった。
その行く手には、ここまで見て来た巨石を上回るサイズの巨石が累々と重なっており、その巨石の壁と崖の隙間を登るしかなくなって来た。
そのために石は近すぎて’被写体にもならず、生えている痩せた潅木に掴まっていないと、危険な状態が続き、下山してみると以後の撮影はしていなかった。
頂上下で巨石の壁に阻まれ、通ることのできる通路が無くなり、足を伸ばせば届く足場が見えていたのだが、向こう側に伸びている半枯れになった灌木が掴まることのできる状況だったのだが、掴んで体重を掛けると抜けそうな感じだった。
その木が抜ければ、一緒に崖下に落ちる状況だったので、そこで前進するのは断念して引き返すことにした。
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大岩山弘法大師にやって来るために使用した愛車はアドベンチャータイプのモーターサイクルなので、ダートの道にも対応できるだろうと推測してセレクトしました。しかし、大岩山弘法大師からの下りの林道で大きな石に乗り上げ、車体を倒しそうになりました。車体が軽いか、アメリカンタイプのモーターサイクルに多い、足付き性が抜群の車種であれば問題なく体制を戻せるのですが、私の愛車は250ccとしては車重の重い車種で、大きく車体を傾ければ支えることができない可能性がありました。それで、支えるのに必死でしたが、なんとか体勢を戻すことができました。それは、この林道が参道として広げられた道でスペースに余裕があったからです。そうでない、狭い崖沿いの林道では崖下に転落する可能性は十分あることが判りました。となると、この愛車で山に登る範囲はかなり限定されることになります。結局、車重が重く、脚付き性が通常レベルのモーターサイクルではこういうダートではリスクのあることが確認できた大岩山弘法大師登りでした。
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