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麻生田町大橋遺跡 土偶A 183:都心の鮎釣り
岡崎市大平町の大平川堰堤(えんてい)から、国道1号線などを辿り、北西900mあまりの乙川(おとがわ)に架かっている御用橋に移動しました。
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御用橋上から上流側を見下ろすと、正面の遠景に対岸に位置する大西町のビル群が見える。
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こうしたビル群は乙川を辿りはじめてから初めての景観だ。
一方で乙川は両岸ともコンクリートを使用した護岸はなされておらず、水量も少ないことから、川床が露出している。
周囲は都会になっているのに、すぐ上流まで乙川沿いだけ森が豊かで、手付かずになっている。
大平橋下流側の乙川は水深が増しているが、すぐ下流付近では波はまったく立ってなく、静かな水面だ。
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下流で水路は左手に曲がっているが、下流360mあまりに架かっている乙川大橋がのぞいている。
右岸に一部、コンクリートで護岸されている部分があるが、この川岸にはヤマダ電機ほかの大型の商業施設が集合してる。
なので、広大な駐車場があり、そこに出入りする車道が複数設けられており、そのために護岸されたようだ。
ところで、御用橋は乙川を辿ってきて、初めての照明機能を持つ親柱を持った橋だった。
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御用橋から乙川の右岸に沿った道を辿って、歩道を両側に持つ乙川大橋に移動した。
乙川大橋は長さが110mあまりあり、歩道を中央まで出て上流側を撮影すると、多くの橋と同様、下流側の歩道に移ることができない橋なので、反対側の歩道に移るのに橋から一旦出て、最初の横断歩道を使って反対側の歩道に移る必要があり、往復合計で220m歩く必要がある。
春にモーターサイクルに乗る厚着で220mも歩けば汗ビッショリになる体質なので、それは忌避して左岸に川中までせり出した設備があったので、そこから乙川大橋の下を通して上流側を眺望した。
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乙川大橋下の乙川は左岸(上記写真右手)に30m幅で砂利が堆積しており、雑草が一部に繁殖していた。
なので、実際の水路幅は20mあまりしかなかった。
遠景には乙川の流れてきた山岳部の山並みが見えている。
左岸の高水敷には水辺を散策できるように、コンクリート舗装路が設けられていた。
下流側は片道60mあまり歩いて乙川大橋上の実際の水路側まで出て、撮影した。
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下流側では堆積した土砂の半分ほどが雑草に覆われている。
一方、乙川大橋すぐ下の水路には波が立っていて瀬になっている。
右岸(上記写真右手)は連続してコンクリートで護岸され、川岸には小田急の開発したモダンなビル群が見える。
一方、左岸堤防麓の通路は続いている。
乙川大橋の下流280m以内にはブルーの主桁(しゅげた)を持つ竹橋が架かっているのが見えている。
乙川大橋から右岸沿いの道を辿って大西町の乙川に架かった竹橋に移動した。
竹橋上から上流側を見ると、乙川大橋の美しいライトブルーの主桁が目の前に見える。
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通って来た大平橋(国道1号線)以降の橋の主桁はすべてブルー系に彩色されており、コストを掛けた橋の親柱といい、乙川を都会人の憩いの場とするための措置だと思われる。
乙川の両岸の土砂の堆積部分は、この部分では完全に雑草に覆われている。
竹橋の下流側の橋下では鮎釣りが行われていた(ヘッダー写真)。
これは1つ上流の乙川大橋橋下でも行われていた。
下流側を眺望すると、左岸の土砂の堆積がほぼ姿を消し、川中に島ができている。
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ここまで右岸に続いてきていた土砂の堆積は途中で切れており、逆に左岸の方に土砂の堆積が移っている。
両岸がコンクリート護岸となり、ここまで左岸から姿を消していた川縁の樹木が復活して下流に延びていた。
そして両岸とも、堤防麓に通路が通されている。
竹橋から乙川の左岸に沿った道を辿って、下流1.2kmあまりに架かった吹矢橋に移動。
吹矢橋上から上流側を見ると、川幅は変わっていないものの、土砂の堆積した部分がほとんど姿を消し、水路幅は広がった。
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左岸(上記写真左手)だけ、コンクリート護岸と高水敷の通路が姿を消し、潅木が生い茂っている。
吹矢橋下流側を眺めると、ここまで延々と左岸に続いてきた堤防麓の通路は途中で姿を消し、高水敷の麓の土手が階段状のスタンドに変わっている。
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吹矢橋の親柱も水流をデザインした黒御影石を使用したものになっていた。
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吹矢橋から岡崎城跡まで1kmあまりと迫り、乙川は完全に岡崎市の都心に入りました。岡崎は徳川家康の生誕地であり、家康は岡崎城で生まれています。その岡崎に日本最初のF1パイロットである中嶋 悟氏が出現するまでは、「岡崎」と言えば、全国区なものは家康を除けば「八丁味噌」だったが、バブル時代のフジTVによるF1グランプリ地上波中継が終了して、すでに12年。岡崎と言えば、やはり徳川家康がトップ・ブランドなのです。