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御用地遺跡 土偶 21:70m級前方後方墳

安城市の印内北分(いないきたわけ)1号墳から南東70m以内に位置する二子古墳(ふたごこふん)に向かうため、東側を南北に走る県道44号線(岡崎西尾線)に出ました。

●後頭部結髪土偶

1MAP二子古墳

44号線に出ると、巨大な前方後円墳が目の前にあった。

1二子古墳

それが二子古墳(ふたごこふん)だった。
「二子」という文字を含む地名や古墳は少なくとも北は福島県から、南は熊本県まで多数存在するが、そのほとんどに前方後円墳が関わっていると思われる。
目の前の古墳は桜井町二タ子・印内に存在した。

44号線に出た場所は二子古墳の北西部にあたる場所で、ちょうど車道と歩道を分ける縁石に切れ目が設けてあって、歩道に愛車を入れることができた。
二子古墳の北側には堀内川が流れていたので、堀内川と二子古墳の接点を観るために徒歩で二子古墳の北側に足を踏み入れてみた。
そこからは藪があって、堀内川の川面は確認できなかったが、緑に包まれた二子古墳の墳頂を見上げることができた。

2後円部

12月の中旬だというのに、北側で日当たりが悪いことから、紅葉しているのは笹と一部の灌木だけで、映像で見ると真夏の光景のようだった。
こちら側にはヒノキが多かったが、その樹皮には地衣類が繁殖しているのが確認できた。

愛車に戻り、二子古墳に沿って44号線を南下し、二子古墳の南西側から撮影したのが下記写真だ。

3二子古墳

こちら側から二子古墳を眺望して、初めてこちら側が前方部で、最初に見上げた墳頂は後円部のものであることが判った。
日当たりの良い前方部には松が多い。
後円部の墳上には巨石が散らばっているように見えるが、それは巨木の切り株だった。

二子古墳の南側は広いゲートボール場になっており、数台の車が駐まっていたので、愛車をそこに駐めて、徒歩で時計回りに二子古墳の周囲を回った。
ついでだがゲートボール場の上空に1つだけ、手の届きそうな超低空に妙な雲が浮かんでいて気になった(ヘッダー写真)。
明らかに、周囲の雲とは色も形も異なっている。
それはともかく、この古墳の周囲を廻っただけで、方角によって古墳上の樹種が異なっていることに気づいた。
二子古墳の北東部から眺めた後円部は、なだらかな円丘になっているように見え、やはり日当たりが悪いものの、湿気が少ないことから、同じく日当たりが悪い北部とは異なり、雑草の背丈が短かく、樹木も痩せていた。

4後方部

二子古墳を南東部から眺望すると、西側と違い、裾が削られていることが分かる。

5二子古墳

樹木は松が主体だが、南西部の松と異なり、発育は良くない。

南側に戻ってくると「史蹟 二子古墳」と刻まれた石碑が建てられていた。

画像8

南西側の麓は裾まで墳丘は残っており、巨木の切り株は最も日当たりの良いこちら側に集中している。

7前方部

いよいよ、通路を辿って墳上に登ることにしたのだが、その通路の入り口に教育委員会の製作した案内板『二子古墳』が掲示されていた。

国指定史跡 昭和2年10月26日指定

全長68.2メートル、前方部幅29.6メートル、後方部幅36.2メートル、後方部高さ7.0メートルの前方後方墳です。
矢作川流域では幡豆郡吉良町の正法寺古墳に次ぐ大規模なものです。低い前方部と比較して後方部を高く盛り上げ、墳丘を大きく見せています。
築造年代は、3世紀後半から4世紀初頭であると思われ、矢作川流域では最古級の古墳です。

前方後円墳だと思っていたら、前方後方墳だった。
この案内板には以下の墳丘測量図が掲載されていた。

8A墳丘測量図

なるほど、前方後方墳だ。
南西部(上記図右手)からの通路に沿った部分は雨が流れやすいことから、やはり墳丘が流れ、ウトウ(帯状の窪み)が生じている。
これは西側(上記図下手)のくびれ部も同様だ。

二子古墳が最古級の古墳と推測された要因の一つが前方後方墳であることによると思われる。
なぜなら、東日本の出現期古墳の多くが前方後方墳だったからだ。
前方後方墳は前方後円墳の前段階の墳墓形式とみられ、その数は全国で約500基とされている。

8B古墳の変遷

前方後方墳の原型は弥生期に伊勢湾沿岸で発生した前方後方形墳丘墓とみられるが、それは方形墓の一辺に突出状の祭壇を設けたものだ。
つまり、前方後円墳や前方後方墳の前方部は祭壇と参拝所スペースだったとみられる。

  [古墳] [神社]
   前方部=拝殿(参拝者)
後円後方部=本殿(先祖=神)

前方後円墳や前方後方墳の形式は拝殿前で本殿に祀られた神(先祖)に参拝する神社に受け継がれたといえる。
前方後方形墳丘墓の突出状祭壇の原型は弥生期中期以降に吉備・山陰・北陸の各地方で築造された四隅突出型墳丘墓の四隅に設けられた突出部と見ることもできる。
四隅突出型墳丘墓の突出部には葺石が施され、神社の参道や拝所に相当するものだったのだろうか。

二子古墳の通路を登って前方部に上がると、墳上は後方部に向かって緩やかな上り坂になっていた。

9後方部

行く手には平というよりは中央が窪んだ丘が見えている。

後方部の中央には石碑が立っており、

10後方部

「櫻井天神社古趾」と刻まれている。

11櫻井天神社古趾

二子古墳の南160m以内に位置する比蘇山古墳上に祀られた櫻井神社は『三河国神名帳』には「従五位下桜井天神」として記載されており、平安時代には「桜井天神」と呼ばれていたというので、スペースの狭い二子古墳上から比蘇山古墳上に遷座したのだろうか。

後方部頂上からの眺望は東南東方向が最も開けていた。

12眺望

その方向は矢作川(やはぎがわ)が流れている方向で田畑地が中心になっており、上記写真の左手から新幹線の高架が南東に向かっている。
遠方に見える尾根は左手の桑谷山から右手の茶臼山に至る三河の複数の山の稜線だ。
茶臼山の向こう側には三河湾が開けている。

一方、西側の44号線側には、すぐ眼下に桜井町(安城市)の住宅街が広がっている。

13眺望

後方部上から前方部を見下ろしたのが下記写真。

14前方部

前方部上から見下ろす二子古墳西側の側面は緑で覆われている。

15眺望

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二子古墳は矢作川流域で2番目の規模をもち、この地方最大集落の権力者が埋葬されたとされているものの、具体的な被葬者は明らかになっていません。
ここまで、高さが3m級の古墳が多かったのですが、二子古墳のように高さが7m級となると墳上からの眺望は大きく異なり、明快なランドマークとなります。
新幹線の敷線も二子古墳を避ける形で行われていると思われます。

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