伊川津貝塚 有髯土偶 5:ハタガシラ→ハズ
愛知県西尾市吉良町の蛭子社(えびすしゃ)から次の目的地である塩の里に向かうため、海岸道路を北西に向かいましたが、この時、蛭子社から海岸道路を挟んだ向かい側に幡頭神社(はずじんじゃ)の社号標があることには気づいていませんでした。幡頭神社の本殿がレイラインの基本にしてある中心線から250m以内にあると思っていなかったので、この時は幡頭神社のことは取り上げる予定ではなかったのです。
その社号標は石造で、蛭子社の北側の、海岸道路が90度(下記写真は広角レンズのため、ヘアピンカーブに見えている)折れた角の電柱の右奥に「縣社 幡頭神社」と刻まれていた。
「縣社(あがたしゃ)」とはかつての神社の社格で 国幣社(こくへいしゃ)に次ぐ社格とされていた。
それはともかく、電柱の左脇から、現在は一部が生活道路と兼用になっている表参道が幡頭神社の一ノ鳥居まで急坂となって向かっている。
その距離110mあまり。
ただ、私はこの表参道は登っていない。
次の目的地だった塩の里で丘陵上にある幡頭神社の境内の存在に気づいたことから、愛車で山道を辿り、直接丘陵上にある幡頭神社の駐車場に入ってしまったからだ。
駐車場からまずは鳥居を観るために、境内の一番下方に向かった。
そこに一ノ鳥居があった。
下記写真は一ノ鳥居の外側(下方)から撮影したもの。
上記写真左手から駐車場に通じている脇参道があり、その終点部分に写真のK4輪(欧米での呼び名)は駐車していた。
一ノ鳥居は石造の台輪鳥居だった。
もう一つの社号表が鳥居の手前脇に設置され「式内 幡頭神社」と刻まれている。
表参道は石畳になっていた。
表参道は真っ直ぐ奥の暗い社叢の中に向かっている。
鳥居の少し手前の急坂部分に下って下方を見下ろすと、表参道は石段のような、石とコンクリートの斑の坂道のような状況になっている。
通常の石段では神輿を担ぎ下ろすのに転倒がともなうが、この半石段のような参道なら転倒事故も起きにくいだろう。
一番下の森は蛭子社の杜のようだ。
その先に三河湾、三河湾の先には渥美半島の山岳部の尾根が左から右に延びている。
改めて鳥居をくぐり、社内側から一ノ鳥居を撮影した。
ここから、なだらかな表参道を登って行くと、今度は標準的な20数段の石段があり、それを登ると二ノ鳥居の前に出た。
二ノ鳥居の正面奥には拝殿、その両脇に複数の社殿が並んでいる。
二ノ鳥居をくぐると、境内には砂利が敷き詰められ、その中を石畳の表参道が奥の拝殿に向かっている。
拝殿前の表参道の終着点には石門が設けられ、両翼に玉垣が延びている。
拝殿は瓦葺入母屋造平入の建物だ。
社殿の背景を濃い社叢が覆っている。
石門の中に入って拝殿前で参拝した。
玉垣前に掲示された教育委員会による社伝から抜粋された由緒書『幡頭神社』には以下のようにあった。
なんと、蛭子岬に漂着した建稲種命が蛭子社に祀られていないことに??となっていたのだが、建稲種命はここ幡豆神社に祀られていたのだ。
それにしても外房ならともかく、駿河湾で遭難した遺骸が三河湾内に流れ着くとは意外な出来事だ。
拝殿の左手に回って上記由緒書『幡頭神社』に案内のある重要文化財に指定されている本殿を観た。
本殿の周囲には瑞垣が設けられていた。
幡頭神社本殿に関しては教育委員会制作のもう一つの案内板『重要文化財 幡頭神社』に以下のように記されている。
幡頭神社本殿の右隣には脇殿神明社本殿が祀られていた。
幡頭神社本殿の左隣には脇殿熊野社本殿が祀られていた。
熊野社本殿の裏面には境内社が祀られていたが、情報が無い。
上記両脇殿に関して、教育委員会による以下の案内書『県指定文化財 神明社本殿・熊野社本殿』が掲示されていた。
熊野社本殿の真裏には緑青の吹いた銅板の扉を持つ社殿が設置されていたが、熊野社と関連する建物だろうか。
脇殿熊野社本殿の外側、拝殿の並びで玉垣に沿って銅板葺切妻造平入の覆屋が設置されていた。
木部は小豆色に染められ、小窓の付いた観音開きの扉が正面に付いている。
屋内には流造で素木部分を仙斎茶で染めた竜神社が祀られていた。
この神社に関しても情報が無い。
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ここ幡頭神社は中央に尾張国造のタケイナダネ、東側に天孫族のアマテラス、西側に熊野系の神々を祀っている神社です。この3社にはいずれも出雲族と関わりがあるように感じます。
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