今朝平遺跡 縄文のビーナス 56:矢穴と大女郎蜘蛛
豊田市王滝町の王滝渓谷を流れる仁王川の右岸の遊歩道にあったヒキガエルのような巨石の前を通り抜け、さらに遊歩道を下りました。
キノコの傘だけのような巨石(「巨石J」とします)が遊歩道右手の不動山の斜面にあった。
上記写真巨石Jの根元の小型の石と向かって右下で支えている巨石が無ければ、遊歩道に落ちてきそうな石だ。
巨石Jの根元の小型の石や、向かって左下に散らばっている石は巨石Jから剥離したものだと思われる。
巨石Jの前を通り過ぎると、やって来た遊歩道から不動山の山頂方向に向かう分岐した階段状の遊歩道が上方に向かって延びていた。
地図には、「不動山展望台」の表記があるので、その分岐道を登ることにした。
真っ直ぐ登ってきた遊歩道は平らな壁のような巨石にぶつかって左折し、巨石脇を左に登る太い素木の手すりを持つ登り道になった。
この壁のような巨石、気づくと直径3cmほどの穴が水平に等間隔で並んでいる。
住宅街の石垣や土壁なら水抜きの穴だと思うところだが、これは石だし、住宅の存在しない山中だ。
現代の矢穴としか思えなかった。
しかも石が切り出された痕跡は無いので、切り出しが中止された巨石としか思えなかった。
表面が平らなのも、切り取られた結果なのかもしれなかった。
現代は石を切り出すのにどうしているのか、動画がYouTubeにUPされている可能性があるので、検索してみたところ、そのものズバリの動画が存在した。
かつての石の切り出し職人は矢穴に打ち込む飛矢を使用しなくても、数個のクサビを打ち込むだけで、巨石を割り取っていたが、現在はそうした経験の多い職人特有の“感”に頼らなくても、矢穴を利用して無駄な石が出ないよう、効率よく採石できるようになっているのだろう。
それはともかく、やはり、不動山のこの巨石の小穴は現代の矢穴であることが判った。
江戸時代以前のものと思われる矢穴は、もっと大きな穴なので、切り取られた縁に残った痕跡が派手なものを石材が多用される神社境内などで時折見かけることがある。
旧い矢穴が大きいのは打ち込む飛矢の鋼材が現代のように強くなかったろうし、高価だったことも関係していると思われ、穴の間隔も広くなっている。
遊歩道はこの巨石を迂回すると、この巨石の裏面に回り込みながら登っていた。
そして、この巨石の裏面、隣の巨石と思われる自然石があったが、その脇に体長15cm以上あるオオジョロウグモが直径1.3mほどもある大きな蜘蛛の巣を張っていた。
この日は10月の中旬だったから、オオジョロウグモのもっとも活動の盛んな季節だ。
ここは蜘蛛の多い場所なのかと思ったが、ここの場所にだけ3匹くらいが巣を張っていただけで、ほかの部分では見かけなかった。
オオジョロウグモは日本列島では最大のクモで、蜘蛛の巣の糸も強固。
小鳥を捕食することもあると言われているクモだ。
節足動物にだけ効果のある毒を持っており、ムカデをはじめ、昆虫類の天敵なのだが、哺乳類には無効な毒なので、人類にとっては益虫ということになる。
オオジョロウグモの巣の前から遊歩道はふたたび折り返すように左に向かってカーブしながら登っており、その坂道の脇に、やはり巨大で重そうに感じさせる石(「巨石K」とする)があった。
この巨石Kは上記写真のように向かって左下が欠け落ちている以外は丸ごと残っており、比較的扁平な姿をしているのが、“重さ”を感じさせた。
この石の右下にはどこかから割り落ちた痕跡を感じさせるように岡崎みかげ(武節花崗岩)特有のまだらな模様を露出していた。
この部分は陽が当たらないのでコケが生していないのだが、上面は濃い緑の微細なコケに覆われ、その上に重なるように白っぽい地衣類やツタ状の植物が石を覆っている。
そして、日当たりの多すぎる場所には何も生えていない。
長い根が岩の表面を伝っているのは、武節花崗岩の吸水率がほぼゼロに近く、石から水分を摂取できないからだろう。
こうした根が伝っているのも、武節花崗岩であることの証明だ。
遊歩道はこの巨石の裏面、上側に回り込んでおり、登っていくと、裏面では真二つに割れた石の片側であることが判った。
裏面は割れ目だけではなく、遊歩道側も平らだ。
自然に割れたのか、カットされたものなのか。
ここまで、登ってきたものの、現場では不動山展望台まで、どれくらい時間が掛かるのか不明であり、地図で高等線を見ると不動山山頂はどうみても王滝橋より東北東に位置しているようで、山頂まで登ると陽が落ちてしまう恐れがあった。
それに不動明王が奉られていそうな水路の存在する雰囲気は無かった。
それで、不動山山頂行きは中断して、本来の仁王川沿の遊歩道まで下ることにした。
仁王川沿の遊歩道まで戻り、仁王川沿を下ると、地図に表記されているものと思われる休息所があった。
それは壁のない小屋で、コンクリートでたたかれた床に木のベンチが設けてあるのだが、山側の奥に扉のない堂が設けてあって、奥の壇に仏前すだれに顔を隠すように、後背を持つ石仏が奉られ、対になった榊と蝋燭立て、グラスに香炉が置かれていた。
石仏は不明解な像で、右手に持った棒のようなものと左手にブラ下げたものが、削り取られているように見える。
思い当たる仏像が無かった。
膝の表現が典型的な青面金剛(しょうめんこんごう)のものなのだが、腕が2本しかない。
青面金剛の標準的な像は六臂(ろっぴ:6本の腕)なのだ。
青面金剛とは庚申塔の主尊のことだが、思い返すと、愛知県の青面金剛は標準的な姿でない像が多い。
この石像を青面金剛と考えると、右手に持っているものは三叉戟(さんさげき:三叉の槍)で、左手にはショケラ(女性裸像)をブラ下げていたように思える。
★庚申塔(青面金剛)とショケラに関しては以下の記事にしてあります。
時間がもったいないので、休息は取らずに遊歩道を下ることにした。
休息所を出ると、遊歩道右手には複数の巨石が折り重なっていた。
もっとも大きな石を2つの巨石が支えている。
2つの巨石は遊歩道を通すために人為的に支ったものかもしれない。
上記写真左手前のコルク質の厚い樹皮をもつ樹木の幹はアベマキだと思われる。
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通称「岡崎みかげ」と呼ばれる武節花崗岩は、現在は巴川上流の足助町則定地区で採掘されています。つまり、岡崎では取り尽くされているということなのでしょう。名古屋市内の神社のほとんどの玉垣は岡崎みかげを使用したものでしたが、新しい玉垣としては岡崎みかげは姿が減っていっており、採石できなくなっているんだろうなと、推測はしていたのですが、足助町で採石されているとは、まったく意外でした。足助町で採石された岡崎みかげは、もちろん足助みかげと呼ばれていますが、東京千代田区の靖国神社境内や長島温泉(三重県桑名市)の露天風呂で使用されており、長島温泉で使用されている石は45トンの石が多用されているそうです。水分を含まない石材なので、風呂材としては適材なのでしょう。足助みかげの流通も岡崎市が主流で、買収先のほとんどが岡崎の石屋だそうです。その流通先は愛知県、東海の全域はもちろん、東北・関西地方まで渡っているそうです。
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