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伊川津貝塚 有髯土偶 67:出雲大社と砥石山天疫神社の謎

今回は愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい) 諏訪神社の境内社だけを紹介する記事になります。諏訪神社は鳳来湖(ほうらいこ)から亀淵川に流れ出ている宇連川(うれがわ)の右岸(西側)に面しています。

中央構造線 愛知県新城市川合 諏訪神社
愛知県新城市川合 諏訪神社/亀淵川/

川合 諏訪神社の境内社はすべて諏訪神社社殿の西側に東向きに設けられた長い連棟社の中にすべて収められている。
そのもっとも奥(北)に祀られているのが出雲大社だった。

愛知県新城市川合 諏訪神社 境内社出雲大社

社(やしろ)は総素木造の祠だった。
これと同じ祠を他で見たことのある人はいないはずだ。
なぜなら、この祠はおそらく、この1点限定のオリジナルな祠だからだ。
正面全面が格子窓になっており、屋根は切り妻屋根の正面と側面を合体した形になっている。
つまり、母屋の妻(屋根がヘの字形に見える側)が正面と側面に存在する奇妙な建造物になっているのだ。
このアイデアの根っこには以下の図があることはすぐに気づいた。

出雲大社 本殿 正面図/西側面図

上記の図は出雲大社本殿だが、様式は大社造であり、本殿内は以下の平面図のように中央に太い柱のある部屋になっており、入室した正面にのみ1ヶ所パーテーションが設けられていて、直接入り口から主祭神の大国主大神と面会することはできないようになっており、大国主大神は奥の部屋で西向きに座しておられる。

出雲大社 本殿 入室経路/大国主大神西遥拝場

このことを知った参拝者の中にはこれでは南側に設置されている、拝殿の太い注連縄の下から参拝しても、大国主大神様はこっちを向いてないじゃないかと不満を持つ輩が出現した。
それで、彼らの中には拝殿前で参拝した後、大国主大神の向いている西側(廻廊の外側)に回って、そこからも参拝する人々が現れた。
その後、西側から参拝する人々は増え続けたため、現在は出雲大社側もついに西側に以下のような西遥拝所を設けるに至っている。

出雲大社 西遥拝所

上記写真奥の建物が本殿で、西遥拝所の賽銭箱は本殿内の北側に座す大国主大神に真っ直ぐ向いている。

話を諏訪神社の境内社出雲大社に戻すと、ここの祠は「出雲大社本殿正面入り口」と「本殿西側の大国主大神がこちらを向いて座している部屋」を合体させたものであることが解る。
つまり、この祠の正面から参拝すれば出雲大社本殿と大国主大神の双方に正面から向き合って参拝できるようになっているのだ。

出雲大社(祭神:大国主大神)が川合 諏訪神社(祭神:建御名方命)に祀られている理由は建御名方命(タケミナカタ)が大国主大神の次男であることにある。

出雲大社の隣は秋葉神社だった。
その隣に金山神社、多賀神社が並ぶのだが、これらの3社はいずれも以下のように総素木造の一般的な祠だった。

愛知県新城市川合 諏訪神社 境内社多賀神社

秋葉神社に関しては修験道との結びつきがあり、総本社の秋葉山本宮秋葉神社が中央構造線の外帯側に位置し、愛知県・長野県では突出して多く祀られている神社だが、四国ではわずかな社しか祀られておらず、特別、中央構造線との関係を感じない。
神社になる前に信奉されていた秋葉山三尺坊も、遠江天狗の総帥と言われた平安時代中期の実在の人物だが、特に丹や鉱山に関する逸話は存在しない。

隣の金山神社に関してはイザナミの嘔吐物(たぐり)から化生したとされる金山彦神を祀った神社が主流であり、「金山=鉱山」と解釈されているものの、中央構造線周辺に多い神社ではなく、鍛冶職との関わりで祀られた社も多い。

その隣の多賀神社はイザナキとイザナミを祀った神社であり、中央構造線が造成されるはるか以前の日本列島を産んだ神々である。
総本社の多賀大社も滋賀県犬上郡多賀村に鎮座し、中央構造線とは関わりを感じない。

その隣には津島神社が祀られている。

新城市川合 諏訪神社 境内社津島神社

この祠も総素木だが、前の3社とは規格が異なり、大棟には4本の鰹木と内削ぎの千木という女神を示す要素があり、扉の金飾りも女性的だ。
しかし、元の祭神は牛頭天王だ。
牛頭天王として考えると、総本社と言えるのは愛知県津島市津島神社と京都八坂神社だ。
両神社とも中央構造線との関わりは感じない。
しかし、「牛頭天王」と「八坂」という要素から想起するのは秦氏であり、徐福だ。
富士古文献である『宮下文書』には徐福が東海の三神山に長生不老の霊薬を求めて旅立ちたいと進言する様子が記されているという。
徐福の言う長生不老の霊薬には丹(水銀・辰砂)も含まれていたのだろうか。『神奈川の徐福伝承』(207.08.23 前田豊)によれば、神奈川の丹沢は中央構造線とは離れるが、徐福一行が捜し求めた、神仙の霊薬として求めた丹(朱・辰砂)の採れる山だという。
霊薬に丹が含まれているなら、徐福が中央構造線を意識していてもおかしくないのだが、東三河から奥三河に至る中央構造線の周囲には徐福が目指した三神山に対応するとされる説のある三山が存在する。
それが石巻山・本宮山・鳳来寺山だ。

中央構造線 石巻山/本宮山/鳳来寺山

鳳来寺山の「鳳来」は徐福が目指した三神山の一山、蓬莱山(ほうらいさん)から当て字を変更したものだろう。
豊川市牛久保の伝承『牛久保密談記』には本宮山の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承があるという。
この伝承からすると、徐福が石巻山・本宮山・鳳来寺山を三神山として目指してやって来たたというよりも、移り住んだ子孫が三神山を地元の三山に割り当てて祀ったという方がありえると思われる。
そして古座は中央構造線からは外れており、中央構造線にこだわった一族ではなさそうだ。

石巻山と本宮山に関しては過去記事で別のテーマで登頂記などの記事にしてある。
●石巻山 I

●石巻山 II

●本宮山


津島神社の隣からは石祠になった。

川合 諏訪神社 境内社石祠

この石祠には直接、表札が取り付けてあったが、文字がまったく読み取れなかった。残念。
躯体は宝形造で前面全面が観音開きの扉になっており、もしかしたら石仏が入っている可能性もありえるのだが、気軽に開けて見るのははばかられた。

不明の石祠の隣は御嶽神社(おんたけじんじゃ)だった。

川合 諏訪神社 境内社御嶽神社

御嶽山は中央構造線の内帯に位置しているが、地面の起伏から見ると、直接中央構造線との関係は感じないのだが、御嶽神社は元は蔵王権現を祭った神社であり、修験道が関わっていることから、社内に役行者像を祀った場所も多く、中央構造線は関係地である。

その隣の石祠には「水神社」と思われる表札。

川合 諏訪神社 境内社水神社

この社は隣を流れる宇連川(うれがわ)と関わりのある社である可能性がある。
宇連川上流の鳳来湖は人工の宇連ダムの建造でできた人造湖であり、中央構造線とは無関係なのだが、宇連川の流れ込む亀淵川が中央構造線と並行して流れていることからすると、宇連川は中央構造線でできた谷に向かって流れて来ている川とみられる。

水神社の隣の石祠は水神社と屋根の横幅が異なること以外ほぼ同じ規格のもので、山神社だった。

川合 諏訪神社 境内社山神社

山神社は愛知県では丘陵部の地主神として祀られた例が多く、中央構造線との結びつきは感じない。

連棟社の最も南に祀られた石祠には屋根に唐破風がついており、神紋が入っている可能性があるのだが、読み取れなかった。

川合 諏訪神社 境内社砥石山天疫神社(?)

表札は「砥石山〓〓」となっており、最初の3文字はなんとか読み取れたのだが、続く2文字が読み取れなかった。
「砥石山」で始まっているので寺院の山号である可能性があるのだが、石祠内には頭頂が円弧になったお札らしくない板が納められている。
「砥石山」でネット検索すると福岡県糟屋郡、京都市、札幌市の3ヶ所に存在する山だった。
京都市の良質な天然砥石の鉱脈は知られているが、ほかの2ヶ所も砥石の産出する山なのだろう。
そして、北九州市小倉南区に砥石山天疫神社が存在することが判った。
祭神は以下のように「天疫」の関わる須佐之男ほか四神だが、この四神の方がビンゴだったのだ!

砥石山天疫神社:須佐之男命
大字屋敷無格社貴船神社より合併:高淤加美神闇淤加美神闇罔女神
大字屋敷無格社諏訪神社より合併:建御名方神

砥石山天疫神社「御由緒」

まず、貴船神社から合祀された高淤加美神闇淤加美神の2柱は以下の『伊川津貝塚 有髯土偶 64:山幸彦の妻は海人族』でも紹介した

賀久留神社の祭神と同じだ。
賀久留神社のことを調べた時は総本社は不明だったのですが、京都の貴船神社が賀久留神社の総本社である可能性が出てきた。

そして、北九州市大字屋敷無格社諏訪神社の合祀された砥石山天疫神社だが、「砥石山〓〓」と「砥石山天疫神社」、字数が一致しないのだが、文字のサイズ変更で「天疫神社」を2行表示して表札に収めてある可能性もある。
何よりも決定的なのは諏訪神社の合祀された砥石山天疫神社が川合 諏訪神社に祀られているのなら、北九州市の神社がここに祀られていても不思議なことではなくなるのだ。

(この項 終り)

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ここ奥三河に出雲と北九州の神社が祀られているのはとても不思議に感じてしまうのだが、経路をたどったことで不思議ではなくなりました。しかし、砥石山天疫神社「御由緒」に「諏訪神社より合併」の言葉が無かったら、謎は解けなかったかもしれません。


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