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本刈谷貝塚 土偶 27:隠された使いの狐

「隠された」と言いながら、ヘッダー写真にすでに登場してますが^^
このページでは水神の所属する碧南市伏見町の稲荷神社を紹介します。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

iPadで利用している地図『maps.me』では伏見町 弁財天の西側に水路が記入されていた。もちろん、弁財天の池につながっているのだろうと思われた。
そこで、その水路を撮影しようと弁財天の周囲を見て回ったのだが、見当たらない。
Google MapsとApple Mapsで、その水路をチェックしたが、水路は表示されていなかった。『maps.me』のデータは一体何時の時代のものなんだ。
だが、おかげで現在は暗渠となっていると思われる水路の場所が判る。
かつての水路を辿ってみると、現在はほとんどが住宅や建造物の建っている私有地の地下に隠されているようで、近づくこともできなかった。
地図上の水路を辿って南西に向かうと、弁財天の南西16m以内にある伏見町 稲荷神社の社地に入った。

1UP伏見町:弁財天/稲荷社境内末社水神

「伏見町」という町名はこの地域の新田を開発した二代目、三代目の伏見
屋又兵衛の屋号を冠した伏見新田に由来するものだという。そして、「伏見屋」という屋号は初代伏見屋又兵衛(三宅又兵衛)が伏見(現京都府南部)の出身者だったことによる。
その稲荷神社の境内に水神が祀られていることに気がついた。
そこで、まずは県道291号線に面している稲荷神社の社頭を観るために稲荷神社の表参道を徒歩で逆行して社頭に向かった。
社頭は稲荷神社の拝殿の南東110mあまりの場所にあった。
291号線の歩道に面して左手に由緒板碑『稲荷神社』。右手に「村社 稲荷神社」と刻まれた社号標。

2伏見町 稲荷神社社頭

村社レベルの稲荷神社の中では、これまで遭遇した稲荷神社の中では最も大きな社地を持つ稲荷神社だった。
石造の台輪鳥居が291号線から15m以上引っ込んだ場所にあり、その手前に1対の石灯籠。
この未舗装の表参道には二ノ鳥居に至る前に5対の石灯籠が設置され、対になっているものは同じ石灯籠だが、5種類の石灯籠となっており、それぞれ異なった興味深い記号が刻まれていた。
ヘッダーの写真はニノ鳥居直前の石灯籠で、奇妙なポーズをした使いの狐が浮き彫りになっているのだが、狐と判るのは宝珠のように膨らんだ尻尾の先の表現くらいで、ここが稲荷神社でなければ、ウチのポチと言われても通用しそうなひょうきんなポーズに見える像だった。
しかし、この稲荷神社に存在する使いの狐像はこの、誰も見向きもしないだろう、表参道に並ぶ2対2種の石灯籠に刻まれた2種の狐像だけだった。
291号線から玉垣に囲われた境内まで一直線に延びる参道は80mあまりで、左右には一般の民家が立ち並んでいた。
石灯籠をしつこく撮影していたら、洗濯物を取り込んでいるおばちゃんと目が会った。
この石燈籠は玉垣に囲われた境内に沿って表参道を横切っている一般道にも面しており、境内は3段の踏み面の広い石段から始まっていた。

3伏見町 稲荷神社二ノ鳥居

この第二の社頭(?)には実に種々雑多な石造物が置かれていた。
社号標があるのは第一の社頭(?)と同じだが、興味を惹かれたのは
この石段の最上段の両端に立てられた1対の短い方柱だった。これは何だ?
(石段の麓、向かって右側にだけある方柱には「百度石」と刻まれているから、これはお百度を踏むための石柱で別物だ)
短い方柱は門柱の省略したものかとも考えたのだが、すぐ後ろに1対の背の高い円柱の門柱(これ自体が珍しいものだ)は存在している。
もしかしたら、短い方柱は石橋の欄干とその親柱を省略したもので、踏み面の広い石段は石橋を兼ねたものかもしれないとも考えた。
もしそうなら、かつて、現在の石段の下には水路が存在していたことになる。
現在、地表から消えている水路のことを考えると、ありえないことではない。
参道を横切っている道路から10m以内に石造の神明鳥居が設置され、その正面奥20m以内に瓦葺の拝殿がそびえており、表参道の両側には4対の石灯籠が立ち並び、円柱の門柱といい、どうも神仏習合の匂いがする。

ニノ鳥居をくぐって拝殿前に出ると、1mほどの高さの基壇上に設置された拝殿は入母屋造平入の建物で、木部はすべて、似せ紫に染められている。

4伏見町 稲荷神社拝殿

拝殿の裏面には瓦葺白壁の回廊が巡らされているようだ。
それにしても、全く稲荷神社の雰囲気の無い神社だ。
拝殿前も狛犬はあるが、使いの狐は見当たらない。
社頭の由緒板碑は可読性が低く、認識できた部分を書き出してみた。

  祭神   保食神(※ウケモチ)
 境内神社 
  水神社 (罔象女神:※ミツハノメ)
  津島社 (須佐之男神)
  御鍬社 (天照大御神)
  天神社 (菅原道真公) 
  秋葉社 (加具土神)
  三宅社 (三宅又兵衛氏)
              ※=山乃辺 注

社名と祭神名は知っている単語なので、なんとか認識できたのだが、由緒概要の部分はほとんど認識できなかった。
伏見町 稲荷神社の祭神は伏見稲荷大社の祭神の総称である稲荷大神の一部である。
この稲荷神社の場所は伏見屋新田が開発される以前には砂州であったという。 創建されたのは伏見屋新田を開発したのと同年の寛文6年(1666)。

拝殿の脇に回ってみると、回廊は途中で途切れ、玉垣に変わっていた。

5伏見町 稲荷神社本殿濠

玉垣の巡らされた部分は掘り下げられ、石垣が組まれ、その石垣を濠がコの字型に囲っていた。その濠の水面は小型の丸い水草で覆われていた。
水草の図鑑で該当するものを調べたところではドワーフ・フロッグピットという浮き草らしい。名前からして外来種だ。
弁財天の池(濠)と稲荷神社の濠は水路でつながっているのだと思われるのだが、どこで、どうつながっているのかは地表からは見定める事はできなかった。
拝殿の裏面に連なる幣殿と本殿覆屋はともに拝殿に順じた瓦葺で木部はすべて、似せ紫に染められていた。

◼️◼️◼️◼️
二代に渡る伏見屋又兵衛は私財を投じて伏見新田を開発し、水災害対策で新堀川開削にも取り組み、私財を使い果たして、新田を手放し、この地を去ったようだ。
太宰治が心中に利用したことでも著名な玉川上水開削を行なった玉川兄弟も江戸幕府からの資金を使い果たすと自分たちの家屋を投げ出して費用に充てている。
持てるもの、上に立つものが公共のために私財を投じるという行為(これもシラスの行為だろう)は天皇家が権力を持つことなく、2,860年も家系を保ってきたことと関係していると思われる。
その根源は遺骨の研究で縄文期の首長が最も過酷な労働を担当し、重責を果たしてきたとみられることにつながっているような気がする。
私腹も肥やしたかもしれないが、頼りにならない人材たちに囲まれて重責を果たしてきたことに関しては安倍首相にはご苦労様でしたと言いたい。
しかし、政治家に人材の居ない、この後の日本はヤバい気がする。
誰が総理になったところで、安倍首相のように持ち駒無しで戦うことになるんだから。


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