伊川津貝塚 有髯土偶 49:南朝陵
愛知県一宮市の時之島八幡社から時之島八幡社の北側を東西に通っている路地の向かい側にある墓地に向かいました。そこには地図には「(西陣南帝)熊野宮信雅王御瑩墓」と表記されている陵があったからです。この陵が伊川津貝塚と本刈谷貝塚を結ぶレイライン上の愛知県内最北の施設です。この熊野宮信雅王御瑩墓(ごえいぼ)は一般の墓地の南側に大きなスペースを取って、ほかの墓群とは区切られた場所となっていました。「瑩墓」とは一定の区切られた敷地を持つ墓の意味です。
下記写真は東から西に向かって撮影したもので、左手に手前から奥に向かって延びる路地のさらに左に沿っている社叢が直前まで居た時之島八幡社。
上記写真右手が一般の墓地で、路地からその墓地に向かう通路から撮影したもの。
コンクリートブロックを2コ、上下に重ねた垣内が熊野宮信雅王御瑩墓で、そのコンクリートでたたかれた参道も路地からコンクリートブロック沿いに御瑩墓に入り、3mほどで90度西に折れ、熊野宮信雅王御瑩墓の塚に向かって真っ直ぐ延びている。
「熊野宮信雅王御瑩墓」と刻まれた墓号標は路地の方ではなく墓の通路のある東を向いていた。
熊野宮信雅王とは何者なのか。
ネットで調べてみると、最初に「熊沢天皇」を僭称した明治生れの熊沢寛道(ひろみち)という人物に関するWikipedia情報があった。
その中に熊沢寛道が主張する熊野宮信雅王に関わる以下の情報があった。
熊沢寛道は南朝の天皇を僭称した人物とされているのがWikipediaの情報だ。
そして、ここでもGHQは米国の都合で日本に影響を与えている。
戦後の日本を代表する御用学者の首のすげ替えはもちろん、首相選任から財閥管理までGHQのコントロール下にあったのだから当然だ。
熊沢寛道の主張する系図が以下だ。
一般に上記第99代後亀山天皇から熊野宮信雅王(西陣南庭帝)に至る系図は正統とみられているようだ。
ここ熊野宮信雅王御瑩墓は年代的に熊沢寛道が設けたものである可能性が高い。
想像にすぎないが、もしかすると、熊沢寛道が自分の正当性を表明するために熊沢家の敷地を墓所として払い下げ、その一部を熊野宮信雅王御瑩墓として奉ったのかもしれない。
愛車を熊野宮信雅王御瑩墓の参道入り口脇に駐め、参道に入って外柵で囲われた塚に向かった。
「塚」と書いているが、上記写真を撮影した段階ではここに塚が築かれていることはまだ気づいてはいない。
外柵の中には纏め植えされた不明の高木が枝葉を広げていた。
外柵の右側には五輪塔、左側には板碑が設けられている。
外柵前に至ると、外柵は大谷石で製造されていることに気づいた。
その大谷石の上部の表面は地衣類で覆われ、パステル・グリーンに染まっている。
外柵の中央には黒く染められた鉄製の連子格子の門が閉じられ、かんぬきが掛かっている。
門の前両側には対になった石灯籠、その手前に石造の花立と水鉢がセットで配置されている。
門越しに外柵内を見ると、中央部が少し高くなるように河原石が積まれており、河原石は外柵内の地面をすべて覆っていた。
そして、中央からは少し右にズレているが、塚の中央に植えられた樹木の根本には石灯籠の宝珠、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠、五輪塔の水輪に当たる玉石を重ねた宝塔が置かれ、宝塔前の拝石には香炉や蝋燭立てが置かれている。
青竹を模した樹脂製の花立も設置されている。
外柵右手の五輪塔を見に行くと、岡崎御影石で製造された、比較的新しいものだった。
2段の基壇上に五輪塔を重ねたもので、地輪部分に以下の文字を刻んだものだった。
この五輪塔の笠には十六菊花紋が刻まれていた。
この五輪塔の北側に回り込むと、その面にも以下の文字が刻まれていた。
外柵の北側は奥の上半分が崩れ落ちており、北側から外柵内を見ることができたが、正面の東側から見た時には気づかないものがあった。
樹木に不思議な笠がぶら下げられており、その真下は空間が空いており、その両側に大きな河原石と石柱が立てられていた。
明らかに笠の下には笠を必要とするものが置かれていたようだが、何なのか、想像がつかない。
外柵の反対側、南側に回ると、こちら側には基壇上に板碑が設置されていた。
板碑の前のスペースには河原石の縁石で囲った生垣が設けられていたようだが、一部、縁石が失われていた。
板碑には熊野宮信雅王に関することが凹刻の枠内に浮き彫りされていたが、字数がかなり多いので、後で写真で読もうと撮影してきたのだが、読み取れなかった。
この文字が刻まれた枠内頭頂部にも十六菊花紋が浮き彫りされていた。
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田原市の太平洋岸から向かってきたレイライン最終点が一宮市の熊野宮信雅王御瑩墓でした。これで、土偶の出土した縄文遺跡と元刈谷貝塚を結ぶレイラインの愛知県内版は終了ですが、すでに岐阜県の土偶出土地と元刈谷貝塚を結ぶレイラインを辿る作業は2019年に開始しており、間に武漢風邪(現コロナ)による移動停止が挟まっているので、作業は数年、跳んでいます。その前に次は渥美半島(田原市)最長の川を水源から河口まで辿った記事を連載します。