伊川津貝塚 有髯土偶 30:蛇苔の渓谷
愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)の稲荷山(いなりさん) 長楽寺と富部神社(とべじんじゃ)の境界に存在する渓谷には桜神明社を水源とした水が流れ込み、渓谷を抜けると、曽池遺跡の中心となっていた曽池に流れ込んでいた時代が存在しました。曽池遺跡と重複している長楽寺と富部神社は笠寺台地の丘陵部上に存在し、その丘陵の麓に曽池は位置しているのですが、高波のあった際にはその丘陵部が波に洗われる時代もあったというので、その時代には曽池には海水が入ったりしていたのだと思われます。今回は長楽寺の表参道が通っている土塁上から西側の渓谷へ降りた場所から呼続公園までをたどります。その距離は100m以内です。
土塁上の表参道から渓谷に降りて、土塁下の暗渠部分のトンネルを通して、かつて湧き水のあった東側を覗いたのが下記写真だ。
撮影前日に雨が降ったばかりですが、すでに水路は湿っているものの、流水は完全に姿を消している。
体感していたよりも渓谷の底は光量が少なかったらしく、多くの撮影した写真に手ブレがあって、使用できなかった。
上記写真を撮影した時の背中側(西側)の光景が以下の写真。
中央手前の室のできている樹木は水路の中に根を張っている樹木だが、この渓谷の底に伸びている樹木の中ではもっとも太い樹木だ。
それくらい陽当たりが悪い場所なので、陽光が少なくても繁殖する植物だけが繁殖している。
上記写真、室のある樹木の10mほど先に見えている矩形のコンクリート枠は暗渠の入口で、その遥か奥に小さく見える矩形のコンクリート枠は暗渠の出口である。
前日の雨のうち暗渠の入口にうまく流れ込まなかった水は暗渠の入口脇を通り抜けて下流に流れていった可能性があるが、その途中には枯れ葉が積もって高くなっている部分があるので、土砂降りでもなければ、ほとんどの水は結局暗渠に流れ込んだのだろうと推察できる。
渓谷を下流に進んで暗渠の入り口部分を撮影したのが下記写真。
暗渠入口左脇には落ち葉がほとんど残っているので、やはり水はそこを流れず、ほとんどが暗渠に流れ込んだのだと思われる。
渓谷を下流に向かい、暗渠の出口までやって来ると、コンクリートで南岸(下記写真左側)だけ護岸された無名の「池」が存在した。
上記地図内では「池」と表記されている。
護岸されている側左手の急な土手は富部神社の社地に当たる。
護岸が2mほどで切れている上記写真右手のなだらかな土手は長楽寺の境内に当る。
池は来るたびに様相が大きく変化している。
この前日の雨が残ってはいるものの、池底の半分以上が露出しており、水深は無い状態だ。
上流側からは暗渠の出口が死角になるので、下流側から撮影しようと、コンクリート護岸脇を下流に向かおうと歩き始めたところ、クロックスを履いていた裸足の足の裏に泥水が入って来てしまった。
初めてやって来た時はシューズをこの湿地に突っ込んでしまったので、簡単に水洗いできる裸足にして来たのは正解だった。
下記写真の左端手前のコンクリート護岸の外側の通路に深い足跡が3つほど付いているのが、その時の私の足跡だ。
いつも下流側からこの渓谷にはやって来るので、ここからすでに湿地になっていることをすっかり忘れていた。
おそらく、池の中も本来は湿地だったのを池底をコンクリートでたたいて池にしたものだと思われる。
なので、この部分にも水量は多くないものの、湧き水があった場所だと思われる。
現在も土の通路は乾くことはなく、微量な湧き水があるのかもしれない。
池の下流側には湿地性植物が繁殖している。
とりあえず暗渠の出口だけ撮影しようと、幅15cmほどしかない、コンクリート護岸の上を3mほど歩いて振り返り、撮影したのが下記写真だ。
ここからも、この渓谷一の巨木(?)と表参道の通っている土塁が微かに見えている。
ところで、上記写真を撮影したコンクリート護岸の池側の壁面にもっとも濃く苔が繁殖しているのが見てとれる。
苔の繁殖する場所の条件は二つある。
陽光が当ることと、水分が存在することだ。
10年以上前にここのコンクリート護岸の壁面で採集したことがあるのが以下のジャゴケだ。
●ジャゴケの運命
このゼニゴケ目ジャゴケ科に属する苔類は、多くの苔が名称を特定するのが難しい中で、この苔だけは誰でも特定できる明確な特徴のある苔だ。
和名が「蛇苔」であるように、蛇の皮膚を連想させる形状をしている。
苔の採集にハマっていた10年以上前に、最終的に56種類の苔をガラスの器の中で繁殖させていた。
陽の当る窓辺に置いておけば、あとは霧吹きで毎日水を噴霧するだけで、ほとんど手のかからず、可愛いのが苔類なのだが、このジャゴケは平面的に横に広がって成長していくので、器の中で繁殖させるのは無理な苔なのだ。
そして、このジャゴケは人間の生活圏からは逃げていく。
なので、個人的には名古屋市内ではここ以外では見たことのない苔だった。
だから、この住宅街の中の渓谷で見つけた時は感動した。
自宅では繁殖させられないジャゴケを観るために、この渓谷には頻繁にやって来ていた時期があった。
そして、いつしかこの渓谷から、ジャゴケは姿を消した。
人為的に組み上げた地下水をここに流すようになったことはジャゴケの消滅と関係がある可能性がある。
ここに流れてくる水に洗剤や農薬の成分が含まれるようになれば、当然、姿を消してしまう。
だから、除草剤を使用するなどもってのほかだ。
除草剤は自宅の草取りには便利だが、雨が流れる下流域全体の植物や昆虫、ひいては人類にも影響が出るようになることは考えなくても分ることだ。
最終的に海に流れ込めば、海藻や魚類に影響がでることも、すぐ分る。
除草剤のTVCMを流している企業に環境団体がクレームを付けていないのはクレームをつけても現段階では儲からないから?
それはさておき、苔で滑るコンクリート護岸の上から落ちることなく長距離移動するのは無理そうなので、ここで一旦、桜神明社周辺に駐めた愛車に戻り、反対方向の曽池のある呼読公園側から、この池まで戻って来ることにした。
戻って来て、続きを撮影したのが以下の写真だが、こちら側から見ると、池の中も池の外側も同じようにぬかるみになっている。
池から下流に向かうと、コンクリート護岸は続いており、長楽寺側には木柵が設けられているが、根元がすぐ腐るので、ここにやってくる度に柵は様変わりしている。
水路内の水量は少し増えてきている。
上記写真左側の富部神社社地の土手の麓にも柵が巡らされていたこともあるが、継続できずに、今は姿を消している。
さらに下流に向かうと、コンクリート護岸の終了点があった。
ただし、この先の地面の通路はまだぬかるんでいることから、水路に沿ってステンレスのスノコが置かれていた。
左手の富部神社社地の丘陵上には富部神社の施設も見えるようになって来た。
さらに下流に向かうと、水路の幅が狭くなり、そのために水路の水深は深く変化している。
水路の幅が狭くなった分、通路は広がった。
この部分では水路の左岸に丸太の柵が設けられているのだが、倒れてしまっている部分がある。
一方で、富部神社側の土手の麓にはコンクリートパネルが巡らされている。
水路が再び暗渠になって姿を消すと、長楽寺と富部神社の間の渓谷も姿を消した。
下記写真の右手の鉄柵は長楽寺の柵だ。
ここから先は呼読公園内となり、通路はすべてコンクリートでたたかれている。
奥に見える鉄柵が曽池を取り囲む柵だ。
(この項続く)
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呼読公園は長楽寺から名古屋市へ土地が寄付され、戦災復興に伴う都市計画において公園化されたものです。戦後、同じような話は瑞穂グランド(現パロマ瑞穂スポーツパーク:かつての名古屋国際女子マラソンの発着グランド)になった土地にもありました。そこは戦後まで我が本家の所有地だった場所だが、戦後のどさくさに紛れて、名古屋市が所有権を主張し始めたことから裁判になりました。ただ、この本家の所有地は万葉集に詠われたり、藤原北家の重鎮が尾張に島流しでやって来た時に面倒を見て、瑞穂グランドのある場所で野立てを楽しんだりした記録が平安時代から存在し、明治期にできた日本政府とは歴史の長さが異なり、裁判の行方は明らかだったと親族からは聞いています。