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本刈谷貝塚 土偶 15:天台山 竜江寺
この回で愛知県刈谷市小垣江町(おがきえちょう)の「弁天」地名の秘密を明かす予定でしたが、1回では収まらなかったことから、今回はまず、「竜」地名の方を明らかにします。というか、タイトルでもうバレてますが…
北竜(ほくりゅう)に存在する寺院の山門前に立った時、
凄い違和感を感じたのだが、現場ではその理由がよく解らなかった。
後で上記の写真を見ると、その理由は真新しい1対の仁王像(金剛力士像)にあった。
密教寺院や、それより古い時代の寺院であれば、仁王像があっても違和感はないのだが、この寺院は顕教の寺院のはずだったのだ。それに、真新しい仁王像が雨ざらしの状態で置かれていたのも見慣れない光景だった。
通常、仁王像は仁王門と呼ばれる両袖に仁王像を収める部屋の付いた山門に設置されるものだが、現行の山門は素晴らしい出来で、流用したかったのだろう。
仁王像の脇の寺号標には「曹洞宗 寶玉山龍江寺(りゅうこうじ)」とある。
GoogleMapでは「龍江寺」「竜江寺」の双方が並列に表記されている。
この寺院名が「北竜」「東竜」「江川」の名称の元になったのだろうと思われる。
それにしても、この仁王像が無ければ、この寺院をのぞくことは無かっただろう。
山門前で感じた“違和感”が、この境内に、面白いものがあるという直感につながった。
愛車を山門前に広がる水田の脇に駐めて、寺号標の後ろの山門の壁に掲示されていた由緒書を見に行った。
それ当山の開創は平家の武将行中綱八祖当地に庵を結び千手観音魚籃観音を祀りて郎党の冥福を祈るこれ建久四年(※1193年)にして 当山の開闢なり 元天台山にして延元年間(※1336〜1340年) 住持五世あり
〜中略〜
本尊 十一面千手観音 行基作
魚籃観音 支那伝来仏
徳川家歴代将軍牌
日光東照大権現
〜中略〜
聖観音 稲垣信濃守本尊
紅竜弁戝天 稲垣公寄進
将軍観音 楠正成念持仏
出土勢菩薩 支那伝来仏
弘法大師 岡崎城中中嶋貞二納
観音 本多忠勝念持仏
大日如来 斉州島
板倉藩家老 内藤家累代墓
※=山乃辺 注
この寺院が顕教の寺院だったためチェックしていなかったのだが、曹洞宗寺院は密教寺院から改宗された例がほとんどで、現在の山号は「寶玉山」だが、由緒書内に「元天台山」とあり、前身が天台宗寺院だったと思われる。「弘法大師」が祀られ、真言密教の大日如来が祀られていることから、真言宗も経由していると思われるのだが、本尊である十一面千手観音の仏典は天台宗、曹洞宗両寺院で読誦される仏典だ。
地図を見ると、「弁天」の南西側に「観音」、南東側に「多門」という地名がある。
「竜」と「江」の地名と河川名が竜江寺に由来しているとすれば、「観音」は竜江寺の本尊、十一面千手観音に由来するものと考えられる。
「多門(たもん)」は「多聞天(たもんてん=毘沙門天)」に由来するものと考えられ、由緒書に多聞天の名は見えないが、密教寺院では千手観音を中尊として両脇に多聞天・不動明王を配置して三尊形式にすることが多く、
「多門」の地名も、竜江寺が密教寺院であったことを示している。
「紅竜弁戝天」の名が見えることから、この仏像も竜江寺内に祀られているはずだ。
竜江寺を開創した行中綱八祖はうちのご先祖、平 時景とほぼ同時代の同族だ。
山門をくぐると、山門のほぼ正面、20mあまり先に本瓦葺寄棟造の本堂があった。
本堂前で参拝して、目の前のガラス戸を見上げると、丸に抱き茗荷紋(ヘッダー写真)の寺紋がガラスにプリントされていた。
この寺紋も天台宗の摩多羅神(まだらしん)の神紋として用いられたものであり、
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Ushimatsuri.jpg
やはり、竜江寺の前身が天台宗寺院であったことを示している。
本堂の南、山門脇に朱の欄干や鳥居が目立ち、ハレの気配を振りまく一画があった。
現在の竜江寺は寂びた、落ち着いた顕教寺院だが、この一画だけは別物だった。
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「弁天」の謎も竜江寺の由緒書で半分、明らかになりました。