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伊川津貝塚 有髯土偶 27:ヒンドゥーvs秦氏
愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)の富部神社(とべじんじゃ)社頭から愛車で東の旧東海道まで戻り、北上すると140m以内で左手の朱の鳥居前に出ます。そこが稲荷山(いなりさん) 長楽寺のかつての東海道の入口であり、長楽寺鎮守社清水稲荷の社頭でもあります。
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清水稲荷は独立した稲荷社ではないからなのか、入り口に社号標は無く、小さな石門(仏教形式)が設置されていた。
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白地の幟には墨で「清水稲荷大明神」とある。
鳥居の先が駐車場になっているので、鳥居をくぐって愛車を駐車場に入れた。
入り口の右脇に気になる石造物があったので戻ってみると、旧い常夜灯だった。
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気になったのは、その常夜灯の屋根の反り方が日本風でなかったことと、竿部分(胴体)が太くて唐風だったことだ。
しかも竿部分とそれ以外の部分の石材が異なり、異なったものを組み合わせたか、あるいは竿部分だけが後で製造されたものだった。
脇の石板を見ると、寄贈されたものらしい。
再び表参道を奥に向かうと、参道の北側は広い駐車場になっており、その片隅に瓦葺入母屋造棟入の大師堂が設けられていた。
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これで、長楽寺は現在はともかく、かつては真言宗寺院であったことが判る。
さらに表参道を奥に進むと、旧東海道から50mあまりの場所で、表参道を一般道が横切っている場所に出た。
その一般道から先は玉垣で囲われていて、清水稲荷の境内になっていた。
その入り口から10m以内に二ノ鳥居が設けられていた。
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鳥居をくぐると、大きな猫が2匹いたが、その1匹が隻眼(せきがん:片目)の黒猫だった(ヘッダー写真)。
密教寺院の中には池があると、隻眼の鮒や蛙の伝承がある場合があることを思い出した。
こうした伝承は地球上の各地にあって、それぞれに様々な解釈があるが、個人的には製鉄との関わりが気になっている。
谷川健一氏が隻眼の伝承がある地域と古代の鍛冶場の分布が重なることに着目していたからだ。
ただ、隻眼伝承と鍛冶の神との関連がみられるのは日本列島とギリシャ(キュクロープス神話)に限定されているようだ。
近年、ケルトやラピタ人と日本列島を結びつける話題は出てきているものの、ギリシャ神話と日本神話に共通項が多いのにもかかわらず、ギリシャと日本列島を結びつける話題は表に出てきていないのが不思議だ。
それはともかく、二ノ鳥居の奥の参道の両側は潅木が茂っているが、その隙間を縫って、10mほど先に鳥居と同色の朱塗りの社殿が見えていた。
奥に進むと、瓦葺入母屋造棟入の鮮やかな清水稲荷殿があった。
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朱色は最近、塗り替えられたようだ。
清水稲荷殿の前には線香台が設けられている。
丸っこくて縦長の石造手水桶も寺院風だ。
清水稲荷殿前に出ると、正面の戸は開かれていた。
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巨大な賽銭箱には鮮やかに稲魂紋(うけのみたまもん)が金箔押しされている。
天井の鴨居にはやはり「清水吒枳尼眞天(※ダキニシンテン)」と金箔押しされた扁額が掛かっている。
以下左の稲束を担いで狐にまたがっている女神像が吒枳尼眞天だ。
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(滋賀県守山市・小津神社所蔵、重要文化財 平安時代の作)
ついでに右が、伏見稲荷大社の祀っている主祭神宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)だが、この像は重要文化財になっている最古級の宇迦之御魂大神像と思われるが、狐にまたがっていないし、稲束も担いでいない。
ただ、左掌上に稲魂を乗せている。
両像の違いは愛知県豊川市豊川稲荷(現在は曹洞宗寺院)を総本山とする吒枳尼眞天と京都市伏見稲荷を総本社とする宇迦之御魂大神の違いなのだが、吒枳尼(ダキニ)は梵語のダーキニー(Ḍākinī)を音訳したものであり、インド・ベンガル地方の土着信仰がヒンドゥーに習合された神であり、その正体は雌のジャッカル(狐に体格の似た動物)とされている。
一方、宇迦之御魂大神は『古事記』によれば、須佐之男命と神大市比売(カムオオイチヒメ)との間に生まれた次男とされている。
大雑把に整理すると以下のようなことになる。
・ヒンドゥー系 豊川稲荷 吒枳尼眞天
・秦氏系 伏見稲荷 宇迦之御魂大神
●尾張と全国の違い
祀られている社数では伏見稲荷は末社を含めると美容院より多いと言われている最多の神社なので、宇迦之御魂大神が吒枳尼眞天を圧倒しているのだが、愛知県だけは事情が異なる。
愛知県では末社を含めると、おそらく秋葉神社が最多で、伏見稲荷が秋葉神社にシェアを喰われているのだ。
そこには稲作を生活の基本として伏見稲荷を祀ってきた地区と、名古屋城を建てるために人為的に清州から名古屋に街ごと引っ越してきて商業都市を構築した人たちの信奉する神の違いがある。
尾張人にとって必要なのは豊作の神、宇迦之御魂大神ではなく、財産を守ってくれる火伏せの神、秋葉大神だったのだ。
小生も財産は無いのだが、習い性で現在も秋葉神社のお札だけを毎年受けて台所の神棚に上げている。
そして、愛知県内でも農業地区の多い三河では伏見稲荷もみられるのだが、もっと大物の農業神、天照大神を祀っている場合がほかの地域より多いと感じる。
こうした事情があって、秋葉神社と寺院最多県である愛知県の豊川稲荷系は東海地区に特化した神社・仏閣であって、全国区ではないのだ。
そして、ギリシャとつながっているのは仏像がギリシャ彫刻の影響を受けているヒンドゥー系吒枳尼眞天の方だ。
聖徳太子(蘇我馬子)が景教でも仏教でも受け入れられたのに仏教の方を採用したのは、好奇心の強い(=偶像に弱い)国民性を考慮してのことだったのかもしれない。
表参道は清水稲荷殿前で北に折れ、少し石段を降りると、真っ直ぐ北に延びていた。
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少し下った参道は向こう側で再度上っている。
これは清水稲荷殿と本堂の間に谷があるからだ。
上記写真の参道のもっとも低い場所に平らな通路部分があるが、戦国時代にはここに通路は無かった。
なぜなら、南の清水稲荷殿側は今川領で、北の本堂側は織田領だったからだ。
つまりこの谷は領境だったのだ。
なので、両側に以下のような立て札が新造されていた。
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「旧織田領」の立札は潅木の影に隠れているが、上記写真左端に立札の柱が見えている。
この谷を渡る通路の中央部から東側(水源のあった場所)を見ると、湧水は完全に消滅しており、水路には枯れ葉が積もり、潅木が茂っているのみだ。
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反対側の西側を見下ろすと、清水稲荷殿側(上記写真左手前)から水を落とすコンクリート造の樋が残っており、水路の数メートル先右側には方形の枠取りをした水を吸収する暗渠の入り口が残っている。
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そのさらに数メートル先には暗渠の終点口のコンクリート枠も見えている。
この谷を渡る参道部分はまだ湧水があるうちに橋から参道の通る土塁に変更され、その段階で水路は東側から暗渠に変更されていたようだ。
現在は雨が降った時しか暗渠に水は流れなくなっているのだろう。
(この項続く)
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湧水は周辺に住宅が増えると消滅していきます。かつての富部神社と長楽寺の前身が神仏習合していた時代には豊かだった湧水も、境内の表道路沿いが住宅地として切り売りされていったことで消滅していったのだと思われます。