今朝平遺跡 縄文のビーナス 59:雨竜の社
年末で多忙になり、書き込みが4日も空いてしまいました。
豊田市王滝町から、巴川左岸に沿って延びる県道39号線を辿って、同じく巴川左岸に位置する豊田市中垣内町(なかがいとちょう)の「辨天(べんてん)」に向かいました。もちろん、「辨天」は弁財天に由来する字名だと思われます。
中垣内町辨天内の神社を調べてみると、市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)が存在することが解ったので、その市杵嶋神社に向かいました。
行ってみると、市杵嶋神社は巴川左岸に沿って延びる39号線に面していた。
社頭を探して39号線から南東に分岐する県道341号線に入ると、右手の広い草原の中に対になった幟柱立てがあるのに気づいた。
市杵嶋神社だ。
それで、愛車を玉垣やフェンス類で仕切られていない草原の脇に駐めた。
社頭を探すと、草原の中に立っている石鳥居は南東を向いていた。
石鳥居の向いている方向を見ると、別の対になった幟柱立てや社号標らしき石柱が見えるので、徒歩で草原に入り、石柱の方に向かった。
社頭部分は草原より高くなっており、10段ほどの石段の上が表道路に面していた。
社頭の石段上から境内を振り返ると、石段の麓に「市杵嶋神社」と刻まれた社号標。
草原の奥の左端に近い場所に石鳥居。
鳥居の右手に手水舎。
手水舎の奥は石垣が組まれ、土壇が上げられ、その上に瓦葺の建物が横並びになり、建物の右端に高木が幹を伸ばしている。
39号線は市杵嶋神社の裏面を通っていることが解った。
改めて石段を降りると、草原の左手には生垣が巡らされていることに気づいた。
生垣の外側には雑多な樹木が茂っている。
草原にはそれらの樹木が長い影を落とし、かなり陽が落ちていることが分かる。
草原を縦断して石鳥居の前に立つと、明神鳥居なのに注連縄ではなく、両柱に紙垂(しで)を組み合わせた榊が挿されていた。
●注連縄と榊挿し
鳥居の正面奥には5段の石段があり、石段上の正面には注連縄が張られていることから拝殿と思われる瓦葺の建物があるのだが、左右対になった榊挿しと注連縄というのは、天照大神にとっては矛盾するところのある結界なのだ。
日本最古の歴史書とされている『古事記』には天岩戸に隠れていた天照大神が岩屋から連れ出された際に、天照大神が天岩戸に戻れないように天岩戸に注連縄が張られたという神話の記述がある。
このエピソードからすると、注連縄(しめなわ)の「しめ」は「閉める」の意味と受けとれる。
皇大神宮では天照大神は本殿に祀られており、出てこられなくなっては岩戸隠れのように他の神々と人類が困るからか、注連縄は使用されていない。
一方、榊挿しは本来は仏教の柴挿しを神社用にアレンジされたものとみられ、どちらも物忌(ものいみ:不浄や魔を避けること)のために出入り口の左右に対にして設けられるものだ。
天照大神は不浄な者ではないので、榊挿しなら出入り自由ということになる。
以上のような意味から解釈すると、市杵嶋神社の主祭神は市杵嶋姫命であり、親神の天照大神ではないので、拝殿前に注連縄が張ってあることに問題はなく、鳥居は天照大神が入ってこられるようにしてあるということになる。
それも関係していると思われるが、この神社には入ってくるものを脅すための狛犬も設置されていない。
一方、石段の上の拝殿前にはヒンドゥー由来(仏教由来とされているが)の卒塔婆(そとば:サンスクリット語の「ストゥーパ」が語源)の示す五大元素「空・風・火・水・地」を反映する石灯籠が対になって設けられている。
拝殿脇には高木が白い幹を伸ばしているが、後でクロガネモチであることが判った。
拝殿前に立つと、瓦葺切妻造平入で正面はガラス格子の戸が閉め立てられた建物だった。
拝殿前の石段拝所に上がって参拝したが、後で祭神は市杵嶋姫命一柱の祀られた神社であることが判った。
拝殿の左隣の建物はモダンながら簡素な建物だったが、社務所だろうか。
格子戸越しに拝殿内を見ると、板床に真新しいカーペットを敷いた部屋の奥の1段高い場所に太い注連縄を張った総素木造の本殿が祀られていた。
神前幕には同じ市杵島比売命を祀った、琵琶湖に浮かぶ竹生島に祀られた都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)と同じ系統の神紋「入れ違い雨竜紋(いれちがいあまりゅうもん)」(ヘッダー図版)が紫地に白抜きされていた。
竜は成長に従って以下のような五段階の呼び名が存在するという。
昇り下りの竜の幼体を図案化したのが、垣内町 市杵嶋神社の神紋だ。
ちなみに天皇家の使用する竜紋は黄竜であり、例えば「横井正一」さんのように苗字に「黄」の文字が入っている家系は桓武天皇の末裔である可能性がある。
「成竜(チャン・ロン)」はジャッキー・チェンが芸名として使用している。
本殿の覆屋を見るために拝殿の右手に回ると、瓦葺切妻造棟入の奥に深い建物で、白壁に窓が設けられたプレーンな建物があった。
ただ、社務所と思われる建物と拝殿の裏面で繋がった建物のようで、その一部(拝殿奥)に本殿は収められているようだ。
クロガネモチの脇には案内板が立てられていたことから樹種が判明した。
名称が縁起が良いことから、庶民向けの神社によく植えられる樹木だ。
案内板には以下のようにあった。
市杵嶋神社や弁財天は池や水路の周辺に祀られる神だ。
垣内町 市杵嶋神社の社地は郡界川の右岸に沿って位置している。
郡界川を観るために社頭を出て、社頭前の道が郡界川を越えるために架かっている橋に向かった。
かなり旧い親柱には「郡界橋」と刻まれていた。
郡界橋上から郡界川の上流側を見下ろすと、川面の中央まで両岸の樹木が枝葉を伸ばしていて、上流方向は見通せなかった。
郡界川の下流側を見下ろすと、カーブしている市杵嶋神社のある右岸側(上記写真右手)の護岸は傾斜を付けてコンクリートブロックが張られ、左岸側はやはり傾斜が設けられ、コンクリートがたたかれて護岸されていた。
橋のすぐ下でカーブが始まっていることからできたと思われる中洲は、びっしり背の高い雑草と灌木で覆われている。
下流側に見える橋が39号線の通っている現在の郡界橋だ。
この辺りでは郡界川が東加茂郡(中垣内町辨天のある右岸側)と岡崎市岩津地区の郡界になっているようだ。
つまり、郡界橋は豊田市と岡崎市の市境ということになる。
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現在の郡界橋は旧郡界橋の下流80mあまりの位置に架かっており、郡界橋の下流130m以内で郡界川は巴川に合流しています。郡界川は豊田市下山地区蘭町付近(旧郡界橋の東南東13.3kmあたり)に源が存在し、大沼川・立々日木川(るるひきがわ)などを集めて巴川に合流し、最終的には矢作川に流れ込んでいます。