今朝平遺跡 縄文のビーナス 11:豊栄稲荷の道と居館跡
豊田市足助町(あすけちょう)の飯盛山(いいもりやま)に関する案内板の内容を紹介すると、以下のようなことになります。飯盛山は香嵐渓(こうらんけい)の中心に位置し、標高251m、街道からの比高131mです。 円錐形の美しい形をしており、神の天下る神聖な山として古代より信仰の対象とされていました。かって頂上の数個の巨石の周りでは神事が行われ、神様が座ったとされる巨石を「磐座(いわくら)」と言います。 神様が現在の八幡宮の方角に向けて足を休められたことから「足助」という地名が付いたとの説もあります。 明治初年までは山頂に「嶽の宮(たけのみや)」と呼ば れる祠があり、それが現在の足助八幡宮に移されました。
磐座の存在する飯盛山山頂の西端から1段下に降りると、南に向かう通路があり、下りの山道になっていた。
おそらく、この道は飯盛山の南西の麓にある飯盛山 香積寺(こうじゃくじ)に通じているのだろうと思われた。
本来、飯盛山に存在したという足助城がどこにあったのかという情報は見当たらず、足助城とは別にGoogleMapには「飯盛城跡」という表記が山頂の南西下に表記されているので、それらしき場所があれば、寄ろうと考えていた。
北西側からの登り道には多かった目につく石も、南西への降り道には少なく、後で撮影した写真をチェックすると、巨石が1カット残っているのみだった。
その巨石も、特に興味の惹かれるものではなかった。
15分も山道を下ると、途中から丸太を埋めた階段が現れ、気づくと、朱地に「豊栄(とよさか)稲荷大明神」と白抜きした幟が立ち並ぶ、朱の鳥居前にたどり着いた。
上記写真の鳥居左手の階段の上から鳥居に向かって降りて来たのだが、鳥居をくぐると、鳥居の脇には下方に向けた「豊栄稲荷奥之院参道」と刻まれた社号標が建てられていた。
現在の香積寺は曹洞宗寺院だが、稲荷社が存在することは、前身が密教寺院であったことを示している。
豊栄稲荷奥之院への表参道はここから上記写真右手の山に登っていく形になっていたが、せっかくなので、参拝していくことにした。
豊栄稲荷奥之院への表参道に向かうと、こちら側にも朱の鳥居が設けられていた。
表参道の階段の頂点には豊栄稲荷奥之院が見えている。
鳥居の少し先から登りが急になり、階段は石段に変わっている。
鳥居をくぐって石段下から上を見上げると、桧皮葺(ひわだぶき)ではないかと思われる覆屋の中に豊栄稲荷奥之院の社が収められていた。
正面には瑞垣(みずがき)が張られている。
石段を最上階まで登り切って覆屋前で参拝した。
足助町文化財保護委員会の製作した案内板『豊栄稲荷』にはこうあった。
豊栄稲荷奥之院の社は扉と頭貫(かしらぬき)は旧いものを流用して、宮大工ではなく、一般の大工が製作したもののようだった。
社(やしろ)の扉の前には朱の鳥居のフィギュアが置かれ、それを取り囲むように陶器製の複数の使いの狐像とお水が奉納されていた。
豊栄稲荷奥之院を下ってくると、豊栄稲荷奥之院の一ノ鳥居と思われる朱の鳥居があって、そのすぐ下には参道から分岐した通路に沿って4基の五輪塔と1基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が河原石で石垣を組んだ基壇上に並べて奉られていた。
五輪塔はシナやインドには存在しない石塔で、『ホツマツタヱ』を信じるなら、縄文時代のヲシテの五元素「空・風・火・水・地」を五輪塔の上の石から順に当てはめたものだ。
足助町文化財保護委員会の製作した案内板『鈴木五代の墓』を要約すると以下のようにあった。
力の強い氏族に隷属して波乱の生涯を送らざるを得なかった弱小氏族五代の墓碑だ。
鈴木氏のみを奉ったこの墓地から少し下ると、多くの無縁塔が階段状に並んでいる場所があって、その最上段には十六羅漢が並んでいた。
玄奘(げんじょう)訳『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』(だいあらかんなんだいみたらしょせつほうじゅうき)によれば、仏滅後800年、ナンディミトラ大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度(仏・菩薩が人を苦しみから救うこと)する役割をもった16人の阿羅漢(悟りを開いた聖者)のことだという。
山道を抜け、香積寺の境内に降りると、本堂の裏面を囲う瓦葺白壁の土塀の外側に瓦葺宝形造で舞良戸(まいらど)を締め立てた東向きの建物があった。
弘法堂だった。
弘法大師が奉られているということは、この寺院の前身が真言宗寺院であったことを示している。
曹洞宗寺院である香積寺にとって、弘法大師は外様だから、塀の外側に奉られているのだ。
裏面から塀内に入り、本堂の正面に立つと、美しい本堂だった。
屋根と躯体のバランスや白壁を焦げ茶の棟と柱で分割したバランスが絶妙な建造物になっている。
そもそも、寛永年間に香積寺の11世参栄禅師が巴川沿にカエデを植えたのが始まりで、愛知県随一の紅葉の名所となっている。
さらに25世風外禅師は画技に卓越した人物で、現在も風外禅師の絵は多数、香積寺に所蔵されているという。
このように、美を求める伝統が後々の住職にまで少なからず受け継がれている可能性があり、業者任せにはしていないのかもしれない。
本堂に向かって左手には真紅の鳥居と立ち並ぶ朱の幟が見えるが、この鳥居から参道が豊栄稲荷奥之院にまでつながっているのだ。
本堂前の平地に入る入り口に門は無く、石段で下って広い参道に降りられるようになっている。
参道の左手は1mほど高くされ、芝が植えられているのだが、参道の右手は逆に2mほど低くなっており、なんとも奇妙な地形になっている。
寺院とはいえ、ここは元は足助氏居館だった場所であり、総門から居館本拠までイージーに侵入できるようになっていなかった痕跡を感じる。
かつては上記写真奥に見える総門があったのではなく、参道の右手から、ループ式に上がってくる通路があったのではないかと思われる。
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案内板『飯盛山 香積寺』によれば、香積寺は応永34年(1427)に創建された曹洞宗寺院で、かっては学林として栄え、時には100名もの雲水が参禅したといいます。