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伊川津貝塚 有髯土偶 74:杯状穴?
10月の中旬、2度目の奥三河、愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)宇連(うれ)ダムの南東1.7kmあたりに位置する名合(みょうごう)の六所神社に向かいました。
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名合 六所神社は宇連川に流れ込む大島川の三角地にできた丘陵部に位置し、国道474号線の南側に鎖を張った車止めがあり、そこが車の出入り口になっていたが、後になって境内の西側にある大島川沿いの石段から474号線の高さまで登ってこられる道が表参道であることが判った。
その石段を上り切った正面に西南西を向いた一ノ鳥居があったが、一ノ鳥居からは、さらに50段ほどの石段が真っ直ぐ丘陵上に延びていた。
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私は上記写真の左手脇から表参道に合流する形になった。
愛車は車止めと474号線の隙間に駐めた。
一ノ鳥居は石造明神鳥居で、頭頂の笠木と島木(上側の2本の横棒)は樹液で汚れていたが、貫(ぬき:下側の横棒)は純白に近く比較的新しい鳥居であることが分る。
鳥居の柱には榊立てが結んであり、赤く変色した枝葉が差されていた。
その一ノ鳥居から延びる石段も樹液と日差しで焼けており、登って行くと、踏み面に白っぽい地衣類が所々、繁殖していた。
石段の両側は潅木や樹木の伸びる土手になっている。
石段を上り切ると、石段のすぐ正面に一ノ鳥居と同じ規格の二ノ鳥居があった。
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二ノ鳥居の正面奥には瓦葺の拝殿が見え、その背後を社叢が覆っていた。
拝殿の前は開けており、その入り口まではコンクリートでたたかれた表参道が延びている。
鳥居をくぐって拝殿前に至ると、それは瓦葺入母屋造の欄干付きの濡れ縁を持つ建物だった。
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鳥居もそうだが、拝殿に表示されている幟やポスターを見ると、六柱の祭神の中には天照大神が含まれていることが推測できた。
拝殿前の3段の石段を上がろうとして、石段の上側の親柱が縦に2つの小穴を開けた妙な石が対になっていることに気づいた。
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石を社頭などに対にして左右に置く例には時折遭遇するが、その意味については未だ知らない。
知っている方がいたら、教えていただきたい。
ただ、ここ六所社の場合は以下の4つの要素で、初遭遇のモノだった。
1 頭頂の尖った石が選ばれている
2 縦に2つの小穴が空いている
3 石段の親柱を兼ねている
4 拝殿の階段の両側にも登頂が尖っていて、縦に2つの小穴が空いている石
が重ねて置かれている
拝殿前の3段の石段を上がって拝所で参拝したが、後で調べてみると、祭神は一柱のみで猿田彦命となっていた。
天照大神の使いを迎えた神だ。
六所神社なのに猿田彦命のみというのは社歴が残っていないということなのだろう。
拝殿の向かって右脇奥には大きな石祠が祀られている。
改めて小穴が空いた石を観てみた。
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ここ六所神社では登ってきた石段から始まり、上記写真でも石やコンクリート部分にペンキをこぼしたかのような白っぽい地衣類が繁殖しているが、この穴を持つ石の裏面にはヘッダー写真のような厚い地衣類が石を覆っていた。
ここまで厚くなった地衣類は初めて遭遇した。
石も時代とともに風化していくものだが、全面をこれほどの厚さの地衣類で覆われていれば、地衣類が生存する限り永久に石は保存されると思われる。
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ところで、4石とも穴のエッジはシャープではなく滑らかになっており、杯状穴(はいじょうけつ)としての意味があるのではないかと感じた。
「杯状穴」に関してWikipediaには以下のように紹介されている。
世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。女性シンボルと関係があるとされ、現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。ペッキングという方法で彫られたもので、蟻地獄のような形をしており、幅は3、4センチから10センチある。穴の少ない石と多数の穴が開いた石があり、別の用途があったのではないかと考えられている。
この部分の記述は海外からのもののようだが、個人的に国内各地で遭遇してきた杯状穴を見てきた限りでは上記説明にあるような「蟻地獄のような形」はほとんど見たことがない。
また「ペッキング」は日本人から見ると、どういう意味で使用されているのか、よく解らない。
越谷市郷土研究会による『石造物にみられる謎の「盃状穴」』には以下のようにある。
「盃状穴」は、西日本一帯で、寺社の境内などにある石燈籠の台石・手水鉢(手洗い鉢)・ 石段・石橋などの石造物や特定の岩によく見られるという。しかし、石仏石塔に関しては特には見られないようである。これは恐れ多くも信仰の対象物を傷つけないためであろう。
上記では「西日本一帯」とあるが、個人的に1ヶ所で最も多数の盃状穴に遭遇したのは東京都の増上寺旧方丈門周辺である。
そして中部日本の愛知県でも盃状穴は多く見られる。
ところで、ここ六所神社の石に見られる穴自体は盃状穴と形態は共通しているのだが、意図的に複数の石に同じ位置に同じ並べ方で彫られているのは決定的に杯状穴らしくない。
これまで、遭遇してきた杯状穴は対になるように表現された例は皆無だった。
これまで、遭遇してきた杯状穴はすでにあった場所で穿たれたものが主だと思われるのだが、ここ六所社の盃状穴(?)は穿たれた後に現在の場所に設置されたもので、そこも異なる。
拝殿の向かって左手に登り坂の石垣が組まれていたので、本殿を観ようと、そちら側に廻り込んだ。
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本殿覆屋は瓦葺切妻屋根の民家のような建物だった。
そして、こちら側の本殿覆屋の並びには大きな境内社を納めた吹きっぱなしの覆屋が設置されていた。
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この覆屋の頭貫(かしらぬき:軒下の唐草模様の入った横棒)にはリニューアルされる前のものが流用されているようだった。
ただ、この境内社に関する情報は見当たらない。
この境内社の脇を抜け、本殿覆屋の裏面を通り抜けて林の中を反対側に廻ったのだが、途中、杉の巨木の根元に内容不明の石祠が祀られていた。
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本殿の正面から見ると、真裏ではなく、向かって右寄りの位置だった。
この丘陵上に最初に祀られていた地主神(山神社)のものである可能性があると思われる。
さらに、本殿覆屋の反対側(南側)に回り込むと、長い石段を上がってきた時に拝殿の向かって右手に見えていた5本の鰹木と外削ぎの千木を屋根に乗せた大型の石祠が祀られていた。
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「横川大明神」という名称の神社の情報は見当たらないのだが、Wikipediaの「横川 (高萩市)」の項目に、現在の茨城県高萩市には、かつて横川村本郷が存在し、鎮守として十殿大明神が祀られていたという情報があった。
なぜ、十殿大明神に目を付けたのかと言うと、横川大明神の右隣に少し離れて、横川大明神と同じ規格の石祠で磯部大明神が祀られているのだが、
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この神社の総本社が、やはり茨城県桜川市に祀られた神社だったからだ。
つまり、名合には茨城県から入植してきた人たちがいる可能性があるのだ。
磯部大明神は現在の名称を「磯部稲村神社」と言い、景行天皇40年(111年)に日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を移祀したと伝えられている。
主祭神は以下の12柱となっていた。
●天照皇大神(アマテラス)
★栲幡千々姫命(タクハタチチヒメ)
★瀬織津姫命(セオリツヒメ)
★木花佐久耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
●天太王命(アメノフトタマ)
★玉依姫命(タマヨリヒメ)
●天手力雄命(タジカラオ)
●玉柱屋姫命(タマハシラヤヒメ)※天照皇大神の分身
●天宇受売命(アメノウズメ)
倭姫命(ヤマトヒメ)
●天児屋根命(アメノコヤネ)
日本武尊(ヤマトタケル)
(※=山乃辺 注)
このラインナップは天孫族を中心にしたものだが、岩戸開き神話の関係者が6柱含まれているので、その6柱には「●」マークを付けた。
また、天孫族ではない姫神が4柱含まれているので、それには「★」マークを付けた。
そして、「★」マークの付いた玉依姫命は中央構造線の関係者火折尊(ホオリ=山幸彦)の妻である。
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地衣類はかつては苔の一種と思われていましたが、最近では藻類(コケなどの植物とは別の光合成を行うグループの生物)を共生させることで自活できるようになった生物であることが判ってきたようです。ややこしい。