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お爺さん(74歳)の思い出 その23 父の事
父との思い出は、よく親子喧嘩をしたなぁと、いつも思い出します。
でも、貴方が一番尊敬している人は、と聞かれたら「親父」と即座に答えてきました。
それ程、父の印象は深く心に残っています。
その事は、この後詳しく書いていこうと思います。
父は、大正6年生まれで正に、大正、昭和、平成の激動期を生きてきた人です。
兄弟は、姉二人兄一人弟一人妹一人の6人ですが、外に先にお話しした祖母と、先夫との間にできた子供が三人いました。家計は別でしたが、親戚付き合いをしていました。
大家族で生活して行くのは大変だった事が容易に想像出来ます。
兄弟の殆どが尋常小学校卒でしたが、何故か父は高等小学校卒でした。
卒業と同時に、篤志家の家に丁稚奉公に出されたと、話してくれました。その丁稚奉公先では、祖父も生活が苦しかったのでしょう、祖父が篤志家から前借りをして、父の貰い分は殆どなかったとも話しておりました。
それが14〜15歳くらいです。その後、父は一念発起家を出て、三池の炭鉱に働きに行ったようです。
当時の炭鉱は、とても景気が良かったようですが、労働環境は今に比べようもないくらい、劣悪だったと語っていました。
でも、父は祖父や家族の生活を助けるために、他人の倍くらい働いた。非番の時も人が行かない現場も、積極的に一生懸命働いたと振り返っていました。
そこから、太平洋戦争に招集されます。
戦地は今の中国(詳しくはわかりません。)だったそうです。体が大きくなかった(160cm位)ためか、歩兵で後方支援が主だったとも語っていました。
後方支援でも、何度も戦闘に巻き込まれて、命の危機に晒された話もしてくれました。
ある日、疲れ果てて野宿をするる時に、ご飯を炊いた池の水を、朝に起きてみたら、他人の死骸が幾つもあり、池が死人の血で染まっていた時もあった。との話も聞きました。
正に戦争の悲惨さを実感させられたら話でした。
一度は、兵役が終わり実家に戻った父でしたが、2回目の招集があり、この時は国内で終戦を迎えたと、話しておりました。
母と結婚したのは、一旦復員した時だったようです。
母と結婚してからも、今度は田川炭鉱に母を連れて働きに行った。この時が一番楽しかったとも話してくれました。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございますございます。
この後も、私の思い出を綴っていきます。
次回も宜しくお願いします。