九ちゃん

お爺さんだけど、おじさん気分で仕事してます。同僚は子供年代、話はほぼついていけます(笑)。    戦後すぐの昭和22年(1947年)生まれです。コロナ禍ですが人生経験を生かして、皆さんの足手まといにならないように働いてます。

九ちゃん

お爺さんだけど、おじさん気分で仕事してます。同僚は子供年代、話はほぼついていけます(笑)。    戦後すぐの昭和22年(1947年)生まれです。コロナ禍ですが人生経験を生かして、皆さんの足手まといにならないように働いてます。

最近の記事

お爺さん(74歳)の思い出   その36 母のこと

母の実家は、私の育った家から1kmくらいの所から、嫁いで来ました。近くから嫁いだ事で、親同士は相手方の家の事情、はよく知っていました。しかし、本人同士はよく知らなかったようです。昔よくあった親同士の、話し合いの結婚です。 母の実家は傘作り職人でした。そんな事で、母は農家のことがよくわからないし、やったこともないので、あまり気が進まなかったと言ってました。 それでも、結婚したからには頑張って、父の手助けをしたようです。 仕事の内容によっては、わからないことから、衝突する事

    • お爺さん(74歳)の思い出   その35 父とのこと

      父とは、よくもまぁあれだけ喧嘩をしたなぁーと思う。 父は真っ直ぐな人で、何事も手抜きをしない。上手や器用ではないが、最後までやり通す。そんな人だったと思う。 例えば、一緒に仕事をするときに、その日の仕事の目標(やりたい事、やりたい量) を決める、そして仕事を始める。午後から夕方にかけて、終わりが見えて来る。 私は、その日の決めたノルマを、早くやり上げるため、休みもそこそこに仕事に没頭する。 勿論父もそうである。 終わりが見えてからが、二人の意見がわかれる。 父は、ノ

      • お爺さん(74歳)の思い出 その34 集落のこと

        私が生まれ育った集落のことについて、振り返ってみます。 集落全体(今で言う自治区)では、その当時80戸〜90戸くらいだったと思う。その集落をまた、5つに分けてそれぞれの小集落毎に、色々な行事をこなしていた。それは今でも続いているようだ。 お葬式、祭り、田植え、頼もし講、道普請等々、あ互いに助け合いながら、生活をしていく生き方は、素晴らしいと思う。 一つの集落は、少ないところで7〜8軒、多いところで、16〜17軒くらいだったと思う。 大きい行事だと、全体を二つに分けて、人

        • お爺さん(74歳)の思い出 その33 子供の遊び

          私の子供の頃は、働き手の一人に数えられることが多かった。 勿論私も長男であり、その一人であった。 従って、友達との遊びは農繁期にはできない事になる。学校帰りに友達と遊んでいると、まだ学校に行っていない、弟が呼びに来る「あんちゃ〜ん、とうちゃんが、早く帰ってこいち、いいよるばい」そう言って迎えに来るのである。我が家は、小学校からは2〜3百m位だったので、学校が終わる頃合いがわかるのである。 遊びたい盛りの子供であるが、父は家の手伝いをしてもらいたい、その一心で弟を呼びにやる

          お爺さん(74歳)の思い出  その32 籾から玄米へそして生活

          田んぼで脱穀した籾を、自宅に牛で運びます。自宅では一旦倉庫に入れて、乾燥に備えます。 乾燥は、先にも書きましたが、自宅の庭に筵を敷いて、その上に籾を広げます。天気との勝負です。一旦雨でも降ろうものなら大変です。家族総出で片付けです。隣近所助け合うのも度々です。 一定の乾燥が終わったら籾すりです。籾の皮を剥がして、玄米にするのです。これは、機械を使ってやりますが、多くの人手が要ります。隣近所が皆さん集まって、「カタヨリ」(隣同士で助け合いながら仕事をする事)に籾摺りをします

          お爺さん(74歳)の思い出  その32 籾から玄米へそして生活

          お爺さん(74歳)の思い出 その31 稲の収穫

          秋は、稲の収穫で忙しくなります。お天気を気にしながら、刈り取り、かけ干し、脱穀、乾燥、精米、供出と続きます。 まず、稲刈りです。当時は手で鎌を使って刈り取っていました。朝早くまだ夜露が稲穂に残っている、肌寒い時間から刈り取りを始めます。手で刈り取った稲を束ねます。束ねるのは藁です。前年の藁を綺麗に、揃えて束ねる用に使います。 次に、かけ干しです。田んぼの中に竹竿を持ち込み、稲をかける柵をつくります。そこに、先に刈り取った稲をかけて行きます。その時に、束ねたことが役立ちます

          お爺さん(74歳)の思い出 その31 稲の収穫

          お爺さん(74歳)の思い出  その30 稲(米)作り

          稲作は、5〜6月頃に植えて10月頃に収穫します。その行程について振り返ってみます。 田植えをする為には、田んぼの準備が要ります。荒起こし(稲を刈り取ったままの田んぼを鋤で起こす事)、荒明け(田んぼを鋤きで起こした後に、「マァガ」で小さく砕くこと)、代かき(田んぼに水を溜めてつちをさらに小さく砕く事)、代ほり(代かきで小さくなった田んぼの土を、平に慣らして稲の苗を植えやすくする事)の、少なくともこれだけの過程を辿って、やっと田植えができます。 田植えも、今は機械で植えますが

          お爺さん(74歳)の思い出  その30 稲(米)作り

          お爺さん(74歳)の思い出 その29 戦後の復興期

          我が家の農業の始まり 父は、実家の跡取りとして、農業を始めました。とは言っても、農地が多くあるわけではありません。そこで、小作(地主の土地をかりて農作物を作ること)をはじめました。一反〜2反位の土地を借りて、少々場所が悪くても耕作します。昭和40年(1965年)頃には、6〜7箇所で約一町歩の田んぼを作っていました。 一方、山では山林(杉山)の間を耕し、畑作をします。杉を植えた間に作物を植える。こうする事により、杉の下草刈りをしなくて良くなります。野菜を作って🥦、下草刈りを

          お爺さん(74歳)の思い出 その29 戦後の復興期

          お爺さん(74歳)の思い出   その28 祖父母の死

          祖母は昭和28年、祖父は昭和45年にそれぞれ亡くなりました。祖母は事故死で、祖父は自分の部屋で大往生だった。その顛末を記録しておきます。   祖母の死亡当日の昼下がり母の実家の近くで、バス🚌が崖から転落した、とのニュースが入り、私(当時6歳)は友達とその現場を見に行きました(野次馬)。そして夕方となつたが、私が帰ってこないので、祖母は心配して探しに出かけたとのこと。

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          お爺さん(74歳)の思い出   その28 祖父母の死

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          お爺さん(74歳)の思い出 その27  戦後の我が家2

          私が生まれ育った地方は、林業が盛んな所です。しかし、林業は🪵土地の確保と長い年月がかかります。特に、建築材に重宝された、杉や檜は植林してからの、適齢な伐採時期は、早くて40年平均50年とも言われています。簡単に表現すると自分の代では植林をして、伐採してお金にする(収入を得る)までは、できないのです。

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          お爺さん(74歳)の思い出   その26 戦後の我が家

          太平洋戦争が終戦を迎えたのは、1945年(昭和20年)8月15日です。忘れがちになっている終戦記念日、二度と戦争をしないためにも、8月15日の終戦記念日は、皆さんでもう一度戦争を考える日にしたいものです。 私の家では、父の兄(長男)が満州に渡って仕事をして、そこで終戦を迎えています。終戦後の帰国が大変だったと、おばが話してくれました。父の兄が満州からシベリアに抑留された事から、叔母は子供3人(男の子4歳、女の子2歳)を連れての、日本への引き揚げです。途中で女の子は亡くなって

          お爺さん(74歳)の思い出   その26 戦後の我が家

          お爺さん(74歳)の思い出 その25 兄弟の事

          私は、男3人女2人の5人兄弟です。 昭和19年生まれを筆頭に最後が昭和31年生まれです。 長女は、昭和19年2月生まれで、中学校を卒業後、小学校の給食係に就職しました。当時は、給食といっても脱脂粉乳を、お湯で解いて配る給食係の役割から始まり、パン食となり、パンと惣菜が出されるようになりました。 姉は、18歳で結婚19歳で長女を出産しております。その娘も19歳で結婚20歳で子供を産んでおり、姉は40歳でお婆ちゃんになりました。これも珍しいのではないでしょうか? 農家に嫁ぎ

          お爺さん(74歳)の思い出 その25 兄弟の事

          お爺さん(74歳)の思い出 その24 父母の事

          父と母は20代半ばで結婚している。父は働き者であつたが、貧乏な家庭で育つ。一方母は竹屋さんで生まれ育っている。当時は雨傘日傘共に竹で手作りであった。他にも、提灯や扇子、団扇など、職人さんが丁寧に一本一本作っていました。剣道の竹刀も作っていた。多くの需要があり、結構な暮らしをしていたようです。 従って、父よりも母の家の方が、数段上の家系であったようです。(当時の結婚は家柄や家の格を比べる時代でした)母はあまり乗り気ではなかつたが、母のお父さんが父の働きぶりに、大変気に入って母

          お爺さん(74歳)の思い出 その24 父母の事

          お爺さん(74歳)の思い出   その23 父の事

          父との思い出は、よく親子喧嘩をしたなぁと、いつも思い出します。 でも、貴方が一番尊敬している人は、と聞かれたら「親父」と即座に答えてきました。 それ程、父の印象は深く心に残っています。 その事は、この後詳しく書いていこうと思います。 父は、大正6年生まれで正に、大正、昭和、平成の激動期を生きてきた人です。 兄弟は、姉二人兄一人弟一人妹一人の6人ですが、外に先にお話しした祖母と、先夫との間にできた子供が三人いました。家計は別でしたが、親戚付き合いをしていました。 大家族

          お爺さん(74歳)の思い出   その23 父の事

          お爺さん(74歳)の思い出 その22 祖父と祖母のこと

          祖父は1880年代(明治20年代)の生まれで、文字が読めませんでした。いつも着物姿(和服)でした。和服と言うと今では憧れる方もいるかもしれませんが、当時は洋服が無く仕方なく着物を着ていたと言うことで、品物は粗末なものだった記憶があります。 祖母は、祖父より10歳位歳上だったようで、再婚で前夫との間に3人の子供がいました。 再婚した祖父との間に6人の子供がいましたから、9人の子宝に恵まれたことになります。

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          お爺さん(74歳)の思い出 その22 祖父と祖母のこと

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          お爺さん(74歳)の思い出 その21 私の生い立ち

          私は、1947年に九州のど真ん中で生まれました。 今回から、私の生い立ちを振り返りかえりながら、戦後の田舎の生活を思い出してみたいと思います。 生家のこと、家族のこと、集落の営みなど、この70年間でどれほど変わったのか、実感していただけたら幸いです。

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          お爺さん(74歳)の思い出 その21 私の生い立ち

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