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立体的に見ると自由になる

『立体的に見なさい』
私の理解が一方的で偏りがある時に、師匠から言われた言葉です。

人は物事を見る時、善か悪か、正しいか間違いか、のように分離を前提とした見方をします。

分離的に物事を見るのは人の習慣なので仕方のないことですが、物事の真相は不二だから物事を分離的に見ると間違うと師匠は言います。

不二については般若心経でも述べられていますし、日月神示では『分離して分離せず、統合して統合せざる』と表現されています。

不二を理解するための教えとして、師匠が紙の裏表の話をしてくれたことがありました。

一枚の紙には必ず裏と表があります。

裏は裏、表は表として分離していますが、一枚の紙としては一つです。

また裏は表があるから裏として認識できます。

仮に裏しかないとしたら、それは裏と呼べないし、何とも呼べないものになります。

裏があるためには表が必要なんです。

お互いが独立、分離していながら、かたや互いに依存し合っている。

それが『分離して分離せず、統合して統合せざる』関係です。

何かと呼べるもの一切はこのような仕組みになっていると言われます。

「分離している」と言うと間違いで、「一つである」と言っても間違いになります。

一方である意味においては「分離している」とも言え、また「一つである」とも言えてしまうんです。

これを理解することは善悪とか、正しい間違いとかいう領域を超えることを意味します。

執着すること、とらわれることがなくなるからです。

師匠が言っていた超越とはこのことで、そうなって初めて『良い悪いを思わず、良い悪いを言いなさい』が出来るのだと思います。

僅かでも執着、とらわれがあると出来ないんです。

物事を平面的に見ると執着、とらわれになります。

故に立体的に物事を見ることが大事なんです。

不二の理解こそが立体への道であります。

以下は私が師匠に「自己のコントロールを放棄し、ただ見ていることがかえってコントロール可能になるということですか?」と質問した時の回答です。


【師匠の教え】
これは同じことを異なる面から話しているんです。
例えば『私は何もしていない』と『私は自在だ』は全く異なることのように見えるけど同じことを異なる側面から言っているんです。

『私と言うものは存在しない』と『一切が私』は同じなんです。
私と言うのは存在していないと言うことは一切が私と言うことで、一切が私と言うことは、私と言うものは存在していないと言うことなんです。

東洋系は私と言うものを否定し、西洋系の一切が私と言う傾向にあります。
これは覚醒と言う山登りの道は大きく分けると逆向きの二本の道から出来ています。
その景色の違いなんです。

覚醒という山自体が立体だから裏と表があって、立体を構成しているから二つの道が当然あるんです。
立体は表があれば当然裏があります。

私は何もしていないと言う時、裏から見ると自由自在で、自由自在と言う時、裏から見ると何もしていないんです。

グルは自分の景色に従って話をしますから、裏側の話はされず、またグル自体が自分の景色意外知らない可能性もあります。
自分の景色意外を知るには智慧が必要だからです。

私は立体を教えます。

一つの景色には矛盾が存在しません。
それは一方的で平面的だからです。
それを聞いた人はどれが正しいと論争を始めるわけです。

私の話を聞くのは難しいだろう。
立体は話すのも難しく、聞くのも難しい。

全く逆向きの道と景色を混乱なく理解しなければならないからね。
それが今回の疑問の原因です。

紙に書くように平面的に理解するのではなく空間に立体的に描き、物事を立体的に理解するんです。
自分を中心とし前後左右上下と立体的に描くように理解するんです。

前があったら後ろがあることを常に意識しているんです。
後ろは常に前の景色の逆です。

前に見える物をそのまま上下に円を描くように、後ろに持って行ってごらん。
そうすると上下は逆さまになるでしょう。

左右に円を描くように持って行くと左右が逆さまになるでしょう。
それに裏表、前後ろがある。

有無の違いもこれだ。
物事も立体的に捉えて行きなさい。

そうすると逆さまに見えるものは一つの状態を構成する二つのパーツであり、その本質は変わらないことが分かる。
善悪もそうだね。

こうやって立体的に理解して立体の中に入っていき、その中心に定まるんです。
上下左右前後の円周上で現象は起きては消え去って行く。

あるグルは『私は行為者ではないから見ていることしか出来ない』と言い、
あるグルは『自由自在になりなさい』と言います。
これも山登りの景色の違いです。

東から登った者たちは頂上で西を見て、西から登った者たちは頂上で東を見ます。

行為をただ見ている状態がある者達から見ると自由自在なんです。
自由自在はある人たちから見るとただ見ている状態なんです。

仏教の景色は自由自在です。
今の流行りの景色は私は行為者ではないです。

ラジニーシはとても知的で私は何もしていないと言いながら、また自由自在だとも言いました。

恐れに怯え、恐れに突き動かされて行為することが不自由です。
ではなぜ恐れるのか?

恐れの前に無明があり、無明から恐れが現れ、その恐れに突き動かされている状態は外鏡に左右されて全く自由にならない状態です。

恐れからくる行為は恐れに支配されていて不自由で、だから苦しみます。
コントロールしようという行為は恐れから来るからコントロールせず、恐れと共に在りなさいと言うんです。

これが出来ると自由自在なんです。
自己のコントロールを放棄すると言うことが自由自在なんです。

得ようとしない者が得られるんです。
一切を欲するなら一切を捨てるんです。

恐れを知らず、断固として折れない意志を持ち、何事にも恐れず、決して諦めるということを知らず、しかも苦しむということも知らない人が出来るんです。

こう言う人のことを自分を支配した勝利者と呼びます。
お釈迦様も勝利者とも呼ばれていました。

ここで私が教えてきたのは無明に智慧で灯りをつけて、恐れに立ち向かう覚悟を養うことと恐れに突き動かされないでいることの二つです。

恐れに突き動かされないことが見ている、または恐れと共にあるで、それが可能になるように智慧で無明に明かりを灯しているんです。

『恐れと共にあることとは?』を知ることが恐れと共にある勇気を与えてくれるからです。

断固として折れない意志と謙虚も一つの状態を構成する二つのパーツです。
断固として折れない意志と委ねも一つの状態を構成する二つのパーツです。
断固として折れない意志がなければ決して委ねもありません。

委ねられている状態は断固とした意志がある状態なんです。
逆に見えるものが合わさって一つの状態を現す。
面白いね。

グルは人を見るとき意志の強さだけを見ます。
全く知識など関係ないんです。

悟りに、神に近いほど、近づくほど断固とした意志が備わり、また断固とした折れない意志がなければ神の御前に座ることは不可能と知っているからです。

道元さんをグルがその素質を見抜いたのも、空海さんのグルが空海さんを見抜いたのもその覚悟を見たんです。
グルとは覚悟しか見ないんです。

ここに来てどんな知識を得たかなどどうでもよいんです。
グルが欲するのは皆さんの強い意志と覚悟だけです。
グルはそれを欲して何かを教えるんです。

皆さん、様々に語るグル達の言葉に迷わされてはダメです。
自分の負荷を和らげて楽になろうとしても無理です。

肩に人の二倍も三倍も負荷を背負っても楽であることが本当の安楽です。
落とすのは心の負荷だけでいいんです。

心の負荷が落ちれば肩に人の二倍も三倍も負荷を載せても、心は安楽で決して折れないんです。

『負荷を背負いたくない』も恐れから来ます。
その恐れに突き動かされず、負荷を背負って恐れと共にあるんです。

皆さん、初めの恐れとは暗闇なんです。
暗闇であることが怖いんです。
知らないことが見えないことが怖いんです。

突き動かされず恐れと共にあってごらん。
怖いものではないことがその内に分かる事でしょう。

その奥にずっと入って行った所が皆さんの家だ。
今ここにあると言うことは恐れと共にあると言うことです。

断固として揺るがない意志がなければそんなこと不可能です。
だから智慧を使うんです。

馬鹿の一つ覚えのように今ここと言うのは無知と言うしかありません。
人を見て人に合ったことを言わねばなりません。

古いカビの生えたものを引っ張り出して来て杓子定規では、今の世界では何の役にも立ちません。

私の言うこと見てごらん。
全く行き当たりばったりで定規は一つもありません。

まあそれで困ることもあります。
何を言いたいかまとめろと言われてもさっぱり分かりません。

その時、その人に必要だと思うことを言っているだけです。
私にこれを言わせている神に聞いておくれと言うしかありません。

でも私は全く自由であって全く何もしてないんです。
自由だと言う感覚と自由だと言うことは自ずと違うからです。