個人などいない
人が幸福になろうと行為する時、我という立場が強くなります。
我を優先すればするほど、相手の立場が見えなくなります。
人であればそうなって当然ですが、相手や自分以外の周りを無視した行為がどのような影響を与えるか、賢明なる皆さんなら容易に想像がつくと思います。
この世界は自分一人で成立していません。
自分を含めた一切のものが集まって、影響を与え合いながら成り立っています。
故に個人の動き、個人という立場など存在しないんです。
仮にあるとするなら影響を与え合わないものでなくてはなりません。
全く認識できない、知ることができないものでなくてはなりません。
認識し、知ることが出来ている以上、無関係とは言えないんです。
ないのにあるという前提で行為することは愚かとしか言えません。
我善しの行為に良い結果が付いてこないのはそのためです。
愚かなことを愚かなことだと知ることが大事です。
知ることで愚かなことは自然とやめていくからです。
それが日月神示で言う身魂の掃除洗濯であると私は感じています。
また日月神示ではまつり、まつり合わせということが何度も言われ、まつりの重要性が説かれています。
一切の立場に立って行為して初めて、まつりと言えます。
まつり合わせには個人という立場は邪魔にしかなりません。
故にまつり合わすためには掃除洗濯が必要不可欠なんです。
【上つ巻 1帖】
富士は晴れたり、日本晴れ。
⦿(かみ)の国のまことの⦿の力をあらわす代となれる、仏もキリストも何もか彼もはっきり助けて、しち難しい御苦労のない代が来るから、身魂を不断に磨いて一筋の誠を通してくれよ。
いま人苦労あるが、この苦労は身魂をみがいてあらぬと越せぬ、この世始まって二度とない苦労である。
このむすびは⦿の力でないと何も出来ん、人間の算盤でははじけんことぞ。
日本はお土が上がる、外国はお土が下がる。
都の大洗濯、鄙(田舎)の大洗濯、人のお洗濯。
今度はどうもこらえてくれというところまで、後へ引かぬから、そのつもりでかかって来い。
⦿の⦿の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る。
⦿は⦿の国、神の力でないと、何も成就せん。
人の力で何が出来たか、みな神がさしているのだ。
いつでも⦿かかれるように、綺麗に洗濯しておりてくれよ。
戦は今年中と言っているが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終わらぬ道理がわからぬか。
臣民同士のいくさでない、神と神、あかとあか、人と人、ニクとニク、タマとタマの戦ぞ。
己の心見よ、戦が済んでないであろ、それで戦が済むと思うているとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越えて時を待つ。
⦿が世界の王になる、てんし様が神とわからん臣民ばかり。
口と心と行と三つ揃うたまことを命(みこと)というぞ。
神の臣民みな命になる身魂、掃除身魂結構。
【富士の巻 15帖】
この方の道、悪きと思うなら、出て御座れ、善きか悪きか、ハッキリと得心ゆくまで見せてやるぞ。
何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員気つけてくれよ。
皆和合してくれよ。
悪き言葉、息吹が、この方一番邪魔になるぞ、
苦労なしにはマコトわからんぞ、欲は要らぬぞ、欲出したら曇るぞ。
盲人になるぞ、お詫びすれば赦してやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もいないのざぞ。
【富士の巻 22帖】
まつりまつりと、くどう申して知らしてあるが、まつり合わしさえすれば、何もかも、嬉し嬉しと栄える仕組ぞ、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理わかりたか、まつりと申して⦿ばかり拝んでいるようでは何もわからんぞ。
そんな我れ善しでは⦿の臣民とは申せんぞ、早うまつりてくれと申すこと、よく聞き分けてくれよ。
我が我がと思うているのはまつりていぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よくわかろうがな、この御道は鼻高と取り違いが一番邪魔になるのぞ、と申すのは、慢心と取りちがいはまつりの邪魔になるからぞ。
ここまで分けて申さばよくわかるであろう、何事もまつりが第一ぞ。