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無限ループに気づく
悟りを求めることは、私は悟っていないという前提を強化するから求めてはいけないと言われます。
また悟りを求めなければ何の努力もしなくなり、いつまで経ってもより良くならないから求めなさいと言われます。
言葉だけ見るとこの2つの教えは矛盾しています。
結果としてどうすればいいかわからないから、何も出来なくなります。
私も師匠から学んでいた頃、矛盾した教えを受けた時は何度もわけがわからなくなったのを覚えています。
しかし、わけがわからなくなるのはある意味において当然だと言えます。
人の意識は外側の一方向しか見ていません。
なぜなら人の最も強固な癖である『私がある』前提でいるからです。
その前提だと自分の外側に原因があることになり不満や怒り、恐怖などが現れます。
内側に原因があるとわかる者には不満や怒り、恐怖など現れようがありません。
故に感情が乱れやすい人ほど意識が外側に向いるから『私』という立場が強く、エゴ的な行為しか出来ないから調和的に生きられないんです。
このことからも外側に向いている意識を内側に向けない限り、心の平穏は訪れないということがわかると思います。
意識を内側に向けるとは本音、本心と向き合うことです。
本音、本心の中身は問題ではありません。
ひたすら本音、本心と共にあり、抱き参らせることです。
解決しようとか、変えようとするのではなく、ただそれと共にあること。
別の言い方をすると何もしないことになります。
そうすることで私という立場が消えていくんです。
私と見なしていたものを客観視することで距離が生まれてくるからです。
続けていると私と思い込んでいたものがあっただけで、私などなかったと実感する日が来るでしょう。
実践という行を続けることが大事です。
ここまでを読むと人によっては内側を見ることが正しくて、外側を見ることが悪いことのように感じるかもしれません。
私が言いたいのは人は外側を見ることに偏っているから、内側を見て下さいという意味です。
内側と外側は表裏一体です。
内側が外側に現れるから、外側に現れているものを見て内側に気づくこともできます。
物事の一切は不二だから両方必要で、必要だからあるんです。
以下は師匠が無限ループについて教えてくれた時のお話です。
【師匠の教え】
俊和さんは私をまず消し去りたいと言うけれど、私を消そうとすることはまた、私がいることを認めていることなのです。
私を消し去ろうとすると私を認めていることになり、だから消えない。
消えないから、消そうとする、消そうとするから、消えないこれは無限ループです。
どうして私を消す必要があるのです。
初めから錯覚だと私を認めねば消す必要もないわけです。
だから私などないのだから世界の為に生きなさいと言うのです。
今悟りの自覚が無いのは潜在的指向で意識が対象に広がっているからです。
この意識を内側に止めなければ悟りの自覚は得られません。
皆さんが私は悟ってないと思う限り、意識は対象に広がり続けます。
悟りの自覚がないから悟りを求める。
悟りを求めるから意識が広がり内側でくつろがない。
自覚がない、だから求める、求めるから自覚が得られない、だから求める。
これも無限ループです。
終わりがないのです。
悟りがなぜ難しいのか?
得よとすれば無限ループになるからです。
だから求めれば法に背き、求めなければ得られない。
どっちに転がっても駄目なのです。
八方塞がりとはこのことです。
このループから抜け出すには悟りを得ようとするのではなく、今を認めること以外にないのです。
完全に今を認めることが出来た時、意識は内側でくつろぐのです。
これ以外に方法はありません。
今を完全に認めるためには世界に私があってはならないのです。
私が消えた時、完全に内側に意識が留まる時なのです。
私を消し去るにはどうするのか?
私がないことを知っていくのです。
知ったら私がない行いをすればよい。
行為に現れて初めて知ったと言えます。
ラマナの『世界は世界に任せなさい』は任せることが出来ると世界のために働くのです。