機会は平等に与えられている
仏教では一切のものに仏性があると言われます。
またある覚者は一切は神の現れだと言います。
神は一切の歓喜、弥栄のために人に様々な環境、体験が与えます。
与えられる内容に違いがあるのは人それぞれ役目の違いがあるからです。
与えられるという点において全ての人が平等です。
一方で、与えられたものをそのままにしていては現状は何も変わりません。
与えられたものを活かしてこそ物事は弥栄するんです。
ここに努力の必要性があり、努力により変えられる自由があります。
与えられる平等、活かす自由。
この矛盾する二つのものが絶妙なバランスで両立し、一つのものとして存在しています。
どちらが欠けても成立せず、どちらか一方が強くなることもなく、弱くなることもありません。
与えるのは神で、活かすのは人。
神、人ともに和合して成立するんです。
神から与えられるものを師匠はチャンスと呼びます。
チャンスは平等に与えられていますが、見逃してしまうと掴みに行くことすら出来ません。
チャンスを見逃さないためにも受け取る努力を続けていなくてはいけません。
お釈迦様も『怠ることなく精進しなさい』と言っています。
以下は師匠の教えです。
【師匠の教え】
私がチャンスと言った時、無条件で与えられるものを言います。
要するに人の努力とは無関係に与えられるものです。
例えば、この世界は神か仏の説法です。
これは人の努力とは無関係に誰にでも平等に与えられています。
人の努力とは無関係に、誰にでも平等に与えられているものを私はチャンス
と呼びます。
チャンスとしか呼びようがないからです。
例えば、密教の加持祈祷の加持とは「加」と「持」と言うのは二つの文字で出来ております。
加は加えるで仏から加わる力、持は受け取る力で仏から与えられる。
それを受け取って加持が成立します。
加を私はチャンスと言います。
持を努力と言います。
チャンスは誰にでも平等に与えられるものです。
それを受け取れるかは本人次第です。
常にチャンスは与えられていて、死を意識する年齢になるほどチャンスは大きくなる。
死と言うもの自体チャンスとして与えられているのです。
死がなかったら執着をなくすのは至難の技となり得ます。
ですから生前の学びがあるのとチャンスは別物なのです。
悟りとは人の努力では得られません。
チャンスがあって努力は成就するのです。
例えば仏教では誰にでも平等に仏性があると説き、誰でも成仏すると説くわけです。
これは我々の努力に関係ないから誰でも平等でなければなりません。
加えられる働きは誰でも平等です。
それに努力が働いて加持と成るのです。
仏教や何かの教えを長く学んだ者とそうでない者の異なりは、受け取る力が変わるだけで、死ぬ瞬間に改心しても遅くはありません。
チャンスは平等に与えられていて学びは改心ですから、いつでも遅くはありません。
ラジニーシはチャンスはいつくるか分からないから飛び続けなさいと言いました。
飛び続けていればチャンスを逃さないからです。
悟りには決して人の努力だけでは行けないのです。
悟る前の段階の状態までしか努力では決して行けません。
最後の壁は自然に崩れ落ちます。
私のチャンスとはこう言うものです。
人の努力と無関係に働く、平等に与えられる神の働きです。
加と持、二つの働きを分けるとすると、加わる力がチャンスで、受け散る力が努力となるわけです。
努力して成功するから努力でチャンスが生まれるようですが、与えられる働きがあり初めて成功します。
この世は神の恵みであり、常に何かしらのチャンスは平等に与えられております。
死の瞬間は人生最大のチャンスであり、それは誰でも平等であり、それを受け取れるかは本人次第です。
人は人生の間中、もがいてもどうにもならないことをもがき続け苦しんで来た。
だが死だけは、もがいてもどうにもならないことを知っているからです。
私に言わせるとチャンスと受け取れるかは別なのです。
私がチャンスだと言った時、受け取れるように努力しなさいと言っているわけです。