
意味を見る
私達は知覚し、それが何かを認識します。
例えば私の目の前には家、塀、道路、車があるのがわかります。
さらに見渡すと空があり、太陽があり、雲があり、犬や猫がいます。
物質的なものだけでなく言葉、音、匂い、考え、感情など知覚出来るものは無数にあります。
私達が知覚しているものは全て極端です。
極端とは「これは○○だ」と他のものと区別できるものです。
区別できる故に認識することが出来るわけです。
しかし、この認識できるものは無常である、つまり不変でないという性質を持っています。
人間は母親のお腹の中から誕生し、成長してやがて寿命を迎えます。
その間、見た目も中身も刻々と変化し続けます。
私の師匠は『人を見る時はその背後にある土を見なさい』と教えてくれました。
人は土から生まれ、やがて土に還っていくということです。
人間に限らず物質的なものは必ず、生滅変化があります。
他の知覚できる事象でも変わることなくあり続けるものなどありません。
私達が「これは○○だ」と認識しているものは実は一過性のものであり、ただ限定的な状態を見ているに過ぎないんです。
人というのは往々にして外側や見た目に注目しがちです。
外側や見た目とは結果の世界であり、停止したもの、つまり終わったものです。
現在の状態を見てあれだ、これだと認識することは問題ありません。
ですが一切の物事は無常であること、不変ではないことを忘れないで下さい。
物事は過程の連続です。
過程とは原因の世界、つまり意味を現わしています。
神の心は歓喜、弥栄です。
より良くなっていくからこそ喜びがあるんです。
喜びがあるからこそ、意味があるんです。
意味のあるものと意味のないもの。
どっちを選ぶかは聞くまでもありません。
どうか皆さん、意味のある人生を送って下さい。
日月神示
【地震の巻 7帖】
地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。
故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。
これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。
しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。
生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。
本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。
これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。