[大祓祝詞 天津罪 国津罪] 魂と心と体のバランス + 穢れ・気枯れ(けがれ)を祓うことで、不安と恐怖感を払い除ける
「諸々罪枉事穢れを祓いたまえ、浄めたまえ」と日々、自己を禊浄めることが神道の世界です。
古来より日本には「水に流す」という言葉あり、穢れをはじめ、全ての凶事や災難を川や海などの水で清め流してしまうことが語源とされ、黄泉の国より逃げ帰った伊邪那岐もまた水の中で禊を行い、その穢れを落としています。神道ではこういった穢れ(けがれ)を気が枯れてしまう気枯れ(けがれ)として心に乱れをもたらすと原因と考え、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむために天津祝詞や節目に大祓祝詞を奏上して、気枯れのもととなる不安や恐怖心を祓います。
私たち人間は神を形どって造られた神の創造物です。イエス・キリストは自らの死をもって人間が犯す罪を赦し、そして自らが生き返ることで苦しみを抱える人々を救済へと導いていきました。神道では個々が神様と向き合い、常に禊祓うことで、罪・枉事・穢れを落として行きます。仏門ではカルマという自分の或いは、先祖の業に向き合い、業を赦し、業を手放すことで西国浄土への道を切り開きます。ある意味、神道の禊払いも、イエスキリストの復活も、仏教のダルマ真理もすべてが宇宙の高次元に存在する唯一無二の自己ハイヤーセルフにつながるための道です。
罪は穢れとして私たちの心を蝕み、ひいては気枯れをもたらします。本寄稿では「今、この瞬間を、生き生きと、生命力高く、幸せを感じて、過ごす」ということを念頭に、日本古来より行われている禊祓について紐解いていきたいと思います。
天津罪・国津罪(あまつつみ・くにつつみ)
神道における罪の観念で大祓詞に登場する。天津罪は須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原で犯した罪として、国津罪は国津神が日本の国土で犯した罪とされている。
天津罪
国津罪
罪穢れとは倫理的な悪行を指すだけではなく、死や病気・ケガを含め、自然の中で起こる天変地異も穢れとしてお祓いや禊を行うことにより、正常な状態に戻すことが神道の思想である。
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稲は元来、天照大神より賜った「命」として大切にされてきたため、天津罪にある田畑を荒らしたり、農作業を妨害したり、ひいては他人の農地を横領したりという行為は、その稲や稲を育てる土地を痛めることとなり、祖神から賜ったものを穢す罪となります。他方、国津罪では近親相姦や獣姦、呪術などが列記されており、その思想の背景には人の心が乱れると人としての倫理感を失い、ひいては周囲へ悪影響を及ぼす行為をしかねないことが罪としています。
このように神道では私たち人間は天津神の御霊を受けて生まれてきた神の子であり、本来清らかな存在です。その清らかであるべき神の子が、私利私欲といった自分の利益や欲望だけを追求する身勝手な行動をとりはじめると、共存生活に支障をきたします。この共同体の存続を危うくする行為は罪として、その罪は穢れをもたらし、その穢れを常に祓うことで、清らかな状態を保とうとすることが神道です。
私が天津祝詞を奏上する時には諸々の穢れを祓い落とすイメージが宿り、不動明王のご真言を唱える際には、不安や試練に打ち勝つイメージが沸き上がります。
加えて、空気がよどんでいる場所や、気持ちを切り替えたい時には柏手を打ちます。柏手を打つ動作には、喜びや歓喜・感謝の気持ちを表す他、邪気を祓う目的があると言われており、柏手を打つことにより「今、ここに、私はいる」と実感するだけではなく、その柏手が響きわたる音色により心が休まり、更にはその場と、柏手の動作と音色が三位一体となると同時に、私の魂と心と体も三位一体となり、バランスよくリラックスしていくのが分かります。
私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。
今を大切にお過ごしください。
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