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小説『KYOMU 虚無』に描かれた「人間機械論」のその先

小説は、基本的にフィクションである。フィクションとは作り話である。作り話であるということは、現実の世界とは無関係なのだろうか。

そうではない。優れた作家によって、慎重に吟味され緻密に編み込まれた言葉の集合体には、現実以上の真実と真理が何層にも重なって描かれている。むしろ、それを小説と呼ぶのだと思う。

小説『KYOMU 虚無』(大島ケンスケ著、Clover出版、2023年)には、プログラミングされたバーチャル世界で生きる人間のアバターが登場する。20世紀初頭、アメリカの文豪マーク・トウェインが作品の中で描いた「人間機械論」は、当時の人々に衝撃を与えた。その3世紀後、人間はさらに高度に機械化されるどころか、とうとうデータ化されてしまうのだろうか。

時代を超えて、2人の著者は何を伝えようとしているのだろう。

1. 20世紀初頭の「人間機械論」

今から100年以上前の1906年、アメリカの作家マーク・トウェインが『人間とは何か?』(原題: “What is Man?”)と題する小説を匿名で出版した。本人が亡くなる4年前のことである。日本では『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』などの児童文学で馴染みが深いマーク・トウェインであるが、彼の「遺言」とも称される本書は、どきどきわくわくするような楽しい物語ではない。

ソクラテスの問答のように老人と若者の対話形式で展開するストーリーの中で、老人は「人間は機械である」と断言する。「人間は誰しも、外部からの影響が作り出したもの」¹に過ぎず、「心はただの機械」²であるため、「自由意志」なるものは存在しない。老人は人間を支配する感情を「内なる主(あるじ)様」³と呼んだ。「内なる主様は、生まれつきの気質と数多くの外部からの影響や訓練の蓄積によって構築」⁴される。その唯一の目的は「自己承認」⁵の獲得であった。

この作品は、世界的に帝国主義が台頭した時代に生まれた。アメリカでは南北戦争後の工業化が急速に進んでいた。老人は当時の物質主義的な人間の欲望に対し、物を欲しがる理由は「物そのものではなくて、その瞬間にはそれが心を満たしてくれそうだから」⁶だと主張する。本当は物質的な欲望など一切存在せず、人間はただ「自己承認」を得ることに終始していると説く。

さらに老人は、「永久的に真理を探究し続けるなんて、人間には不可能」⁷であるとも述べている。「探求者は、これが真理だと己が完全に納得できるものが見つかるやいなや探求をやめてしまう。残りの人生はガラクタ探しに費やして、その真理に継ぎはぎをし、隙間を塞ぎ、支柱を施して、どんな議論にも耐える全天候型の真理を築き上げると、それが頭上で崩壊しないように力を注ぐのだよ」⁸。

資本主義に埋没し、己を満たすことのみに精力を注ぎ、まがい物の真理を真理と仰ぐことで逆に真理から遠ざかる大衆に対し、警鐘を鳴らしている。

2. 23世紀の「データ化された人間」?

21世紀の作家であり、アーティストである大島ケンスケ氏の紡ぐ『KYOMU 虚無』の物語は、時代の異なる2つの世界で展開する。

風次は2036年の退廃的な監視社会で生きている。世界は気候の大変動に起因する食糧難と戦争で荒廃していた。一方、フータは2221年の平和な世界で何不自由ない生活を謳歌している……かに見えた。そこではKYOMU(きょむ)と呼ばれる謎のウイルスが蔓延し始めていた。

2人の人生は、互いの夢の中で、次第に重なり合う。

仮想空間に迷い込んだフータは、死んだはずの風次の兄ライジ(雷太)と出会う。そして、自分は意識をバーチャル世界Kyu-KyoKu(きゅうきょく)に移管させた風次のアバターであること(つまり、フータも仮想空間で生きていること)、Kyu-KyoKuとは、闇の権力者が世界を支配するために構築したシステムであることを知る。

すべてはデータ化されたプログラムとして存在していた。
そしてKYOMUは、Kyu-KyoKuを破壊するためにライジ(雷太)が仕掛けたウイルスだった。

フータと意識がハイパー・リンクした風次もまた、ライジ(雷太)と会い、Kyu-KyoKuにまつわる嘘と兄の死の真相を知る。KYOMU発動の鍵を握るのは、風次だった。

兄の雷太は風次(フータ)にこう告げる。
「安心しろ。お前は観測者であり、創造主だ」⁹
「お前はお前の世界を生きろ。お前には選択ができる。……お前は自分で明確に意思を示し、決断するんだ」¹⁰。

KYOMUが始動し、虚構の世界が次々と消去されていく中で、風次(フータ)は自分の本当の望みを知る。
それは終わりではなく、始まりであった。

3. 神とは

この世界の創造主。それは、一般的に「神」と呼ばれる。

『人間とは何か?』の中で、老人は断言する。「神だけが、外部からの作用を受けずに自身の思考を持つことができる唯一の存在」¹¹であり、「神が人間を機械として創り出した」¹²。それゆえ、人間のすべての功績は、その創造主によるものである。

『KYOMU 虚無』で重要な鍵を握るのは、破壊神と創造主である。だが、実際に神が登場するわけではない。重なり合った風次とフータが、不思議な儀式に導かれて入り込んだところは、「世界が発生する“以前の”場所」¹³だった。まさにそこが、すべてのプログラムの根源である。その根源は、「外部からの作用を受けずに自身の思考を持つことができる唯一の存在」とも似ている。

私たちはどこからやってきて、どこに還っていくのか。この世に生を受けた誰もが一度は考えたことのある問いだろう。その答えのヒントは、「虚無」と2人が入り込んだ「世界が発生する“以前の”場所」に隠されている。

4. 絶望か、希望か

果たして、人間は機械なのだろうか。
この世界はプログラムによって作動しているのだろうか。

老人は、すでに望みを捨てている。

『人間とは何か?』の最終章では、外部からの影響によってのみ機械的に動き、自らが置かれた環境をあたかも自分の自由意志で選択したものであるかのように勘違いし、または取り繕い、そこにごまかしの幸福を見いだす人々を、「端的に言えば、全人類はみな、いついかなるときも満ち足りている」¹⁴と揶揄する。

人類の前に、人間は機械であるという「無骨で冷たい事実の体系」¹⁵を示し理解させることは不可能であるとし、「あらゆる手は尽くされてきたよ。けれども、成功したものは一つもない」¹⁶と締めくくる。この言葉には、真理から目を背ける人々に対する老人の嘆きとも諦めともつかない思いが滲み出ている。

およそ1世紀の時を経て、小説『KYOMU 虚無』は、同じ問いを再び人類に投げかける。

ここに描かれているのは、絶望的な近未来なのかもしれない。地獄絵図的な未来予想図なのかもしれない。もしかしたら、実は今この瞬間にも、私たちはどこかで誰かにプログラミングされた自分(と思い込んだ存在)を生きている(プログラムを実行している)、そんなことを示唆しているのかもしれない。

だが、本書はそれだけでは終わらない。過酷な環境で生き抜くために感情に蓋をして生きてきた風次は、ついに世界の理不尽さに対して怒りを爆発させる。自分に嘘をつくのをやめたのだ。そして、世界の嘘を受け入れるのもやめた。

物語の終盤では、すべてが虚無に飲み込まれたあとに残る“可能性”が示されている。

それは、「愛」と「祈り」。

“プログラムありき”ではない。愛と祈りゆえに、私たちは私たちを自ら創造し、宇宙をプログラミングできるのだ。KYOMUには、そんな壮大な希望が託されていた。それは、人間はただの機械ではなく、ただ他者にプログラミングされた通りにプログラムを実行するだけの存在ではないという、とてつもなく大きな可能性を示唆している。

すなわち、小説『KYOMU 虚無』とは、自分という存在の真の在り処を“探求”し、“探究”するための、究極の物語なのである。

『人間とは何か?』が書かれた時代には、人々は外部から与えられた影響が生み出すまやかしの幸せを、幸せだと信じて生きた。それから100年以上たった今も、人間は同じことを繰り返し続けてはいないだろうか。

私たちはもう、気づかなければならないところまで来ている。



[出典]
1~8, 11, 12, 14~16 『人間とは何か? 自己啓発の劇薬 マーク・トウェインの教え』(マーク・トウェイン著、柴田きえ美訳、石原剛解説、文響社、2022年)より引用

9, 10, 13 『KYOMU 虚無: 仮想現実を行き交う破壊と再生のスピリチュアルノベル』(大島ケンスケ著、Clover出版、2023年)より引用



https://www.amazon.co.jp/dp/4867341363/

https://www.amazon.co.jp/dp/4866514868/




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