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五輪と終戦記念の夏に、ナショナリズムと自己肯定感について考える

2024年夏。
パリオリンピックでは、日本代表選手が金・銀・銅あわせて45個のメダルを獲得し、大きな盛り上がりを見せました。
そして8月15日は終戦記念日。
2つのイベントを通して、ナショナリズム、そして自己肯定について考えました。

メダルは選手のもの? 国のもの?

オリンピックは国家間の競争ではない

オリンピックの報道を見ていると、日本代表選手がどれだけメダルを獲れるかが主なテーマになっていると感じます。

他の国より一つでも多くのメダルを獲りたい、メダルの数では中国に負けたくない……さながら、国同士の戦い。
しかしオリンピック憲章では、「オリンピック競技会は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めているのをご存知でしょうか。

公益財団法人日本オリンピック委員会・オリンピック憲章

「バレーボール 日本 VS アメリカ」であっても、あくまで日本チーム VS アメリカチームという意味にすぎず、日本という国家 VS アメリカという国家ではないということです。
ところが実際は、国別対抗戦の様相を呈していますね。

オリンピックは平和の祭典なのですから、国同士の対抗を煽るような行為はふさわしくありません。もちろん選手がメダルを目指すのは自由ですが、それは国家の競争ではありません。
そもそも一つの国がメダルを何個獲得するかという発想は、「スポーツを通して人類と世界に貢献する」というオリンピズムにそぐわないのです。

メダルランキングは禁止されている

ところで、選手が獲得したメダルは「日本のもの」なのでしょうか?
「オリンピック競技会は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」のだから、
当然ながら選手が獲得したメダルは選手のものであり、国のものではありません

しかし、国(地域)別にメダルの数を数えるのが通例。そのため、まるでメダルが「国のもの」だと感じる人も多いのではないでしょうか。

NHKパリオリンピック特設サイト

NHKもこのような表を作成していますが、オリンピック憲章では国別のメダルランキングの作成を禁止しています
たとえ表にしていなくても、口頭で「現在の金メダル獲得数1位はアメリカ、2位は中国……」と伝えるのもNGだと思いますが、マスコミ各社はほとんどこのアナウンスをしていますね。

オリンピックはメダル獲得合戦ではありません

「日の丸を背負う」のも大変

このように書くと、「税金から多額の助成金(選手強化費)が出ているじゃないか!」と言う方もいるかもしれません。

それは事実です。
2015年にスポーツ庁が発足してから、選手の強化戦略は国が主導するようになりました。競技力向上事業助成金は、14年には50億円未満でしたが、19年度には100億を超え、以降も同程度で推移しています。

競技力向上事業助成金の基本方針を見ると、「メダル獲得の最大化」が明確に記されていますが、これがオリンピズムに反するのは述べたとおり。

スポーツ庁「競技力向上事業助成」交付要綱・実施要領

また、税金の使い方としても疑問が残ります。
9人に1人の子どもが貧困にある現在、100億円もの血税をスポーツ選手に注ぐ、その意味とは?

確かに助成金で選手の待遇は改善されるのでしょうが、同時にものすごいプレッシャーがかかるのは、想像に難くないでしょう。
負けた日本選手は判を押したように「申し訳ない」と言いますよね。
またパリ五輪では選手の誹謗中傷が問題になっていましたが、「税金返せ」というようなコメントも散見されました。

ナショナリズムに利用されるオリンピック

しかし、“国別対抗戦”のナショナリズム高揚効果は絶大なものがあります。
会場に鳴り響く「ニッポン! ニッポン!」コール、踊る日の丸、表彰式で高らかに流れる君が代……。「みんなと一緒」になることで、何か自分が強くなった気持ちになり、活躍する日本選手を見て誇らしい気持ちになる人もいるのでしょう。

そして、日常に抱いている不満や不安が一時的にでも和らぐ
政府はこの効果を十分に知っているから、100億円を投じているのではないでしょうか。

しかし、ナチスドイツが1936年のオリンピックをプロパガンダに使ったことは、よく覚えておくべきだと思います。

私自身はそもそも、「日本代表選手なら、誰でもいいからみんな頑張れ」という雰囲気が好きではありません。よく知りもしないのに「日本人だから」という理由で応援するのは選手に失礼だと思うし、日本人だから日本選手を応援するのは当然ではないです。

一昔前はTVや新聞しか情報源がなかったため、マスコミに頻繁に取り上げられる日本選手を応援していた人も多いでしょうが、今はそうではないですよね。

日本の選手ばかりフォーカスするような報道は、この時代に合っていないと思います。

ナショナリズムと自己肯定の深い関係

健康なナショナリズムは「お国自慢」

ナショナリズムとは何でしょうか?
哲学者の大澤真幸は「自らが所属するnation(国民、民族)を 尊重する行為と意識の全般」と定義しています。

中・高校生のときに観ていた「NEWS23」では、筑紫哲也氏が「健康なナショナリズムは“お国自慢”」というようなことを話していました。
これは正しいと思う。自分の生まれ育った地域や国を大切に思う気持ちや誇りに思う気持ちは、とても自然なことだと思います。

自己肯定感の土台となるのが自己受容

ここで、こちらの記事で書いた【自己受容】について考えたいと思います。
自己受容とは、自己肯定感の土台となる感覚。
「自分にはいいところも悪いところもあり、全部丸ごと、悪いところも含めて、自分であることを受け入れる」ことであり、どんな自分も自分であると“許し、認める”こと。

単なる自信とも、「自分のことが大好き」という自己愛とも異なります。
自分には存在する価値があり、ここにいてもいいんだと認める感覚。

自己受容感は、多くの人は幼少期に両親の愛情を通して育むことができるのですが、さまざまな事情でこれが妨げられる人もいます。

「自分を自分で受け入れられない」まま生きるのは、かなり辛いと思います。

「あなた(日本)に自分の全部を認めてほしい」

自己受容感が欠落している人の中には、これを「大いなるもの」に求めようとする人がいます。
大いなるものとは、例えば宗教。「私がここに存在するのは神のご意思だ」ということですね。

そして、国家に自分のアイデンティティを求める人もいます。
自分は日本人。だから自分は価値がある
日本は偉大な国だから、日本人である自分も偉大である
というように。

さらに、「自分という存在は、【日本人だから丸ごと受け入れてもらえる」「【日本人だから誰にも存在を否定されない」と考えるのです。

しかし、これはあまり健康的ではないように思います。
ほんらい、自分個人としてのアイデンティティは自分で確立すべきもの。
自分のことは自分で認めてあげないといけません。

それに、他人に「あなたって、いいよね」と言われても、自分で自分を承認できないならば、その言葉を素直に受け入れることはできないはず。

自分が欠落しているような感覚は、他のものでは埋められません。
また、自分で自分を認められないと、他者も認めることができないのです。

「自己受容が自分でできないから、「大いなるもの」に肩代わりしてもらおう」。
確かに“お手軽な”ナショナリズムはモヤモヤを一時的には誤魔化してくれますが、それだけです。

100億円の競技力向上事業助成金は“コスパがいい”

しかも現在は、低賃金のギグワークや非正規雇用で若者や女性を「使い潰」している会社がたくさんあります。

このような働き方をしていたら、どんな人だって自己肯定感がゴリゴリ削られますし、ましてや自己受容ができない人は、ますます自分を尊重できなくなってしまうでしょう。

辛い生き方を強いられてる人、疎外感を抱えている人が、「国家」に自分の存在意義を求めたり、海外の人を排除したりするのを見ると、胸が苦しくなります。

彼らの働き方をまっとうにすること、生活に困っている人をいろんな形で援助すること、奨学金という名の学生ローンを軽減して若者に希望を持たせること、苦しい暮らしをしている子どもでも大学に行けるようにすること。

こうした根本的な問題を本気で解決しようとしたら、ものすごくお金がかかるし、手間もかかる
だから、お手軽なナショナリズムで誤魔化しておこうか。

政府にとって、100億円の競技力向上事業助成金は“コスパがいい”出費なのかもしれませんね。


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