三次と忠臣蔵のつながり
忠臣蔵といえば、大石蔵之助以下47人の義士が吉良上野介に対して敵討ちを行った実話(赤穂事件)を基にした物語。さまざまなドラマや映画が製作され、日本だけでなく海外で上映された作品もあります。
ゆかりの地では、事件の舞台となった江戸や、浅野内匠頭の領地であった赤穂などが有名でしょうか。
今回ご紹介するのは、広島県北部、中国地方のおへそ(真ん中)に位置する三次市(三次と書いて"みよし"と読みます)。
人口約5万人のまち「三次」と、約300年経った今も幅広く愛される忠臣蔵のつながりを紹介します。
赤穂事件
赤穂事件についての資料を探していたところ、東京都港区役所が作成した「港区歴史観光ガイドブック」に詳しく掲載されていることを知りました。このガイドブックには、赤穂事件の内容から港区内のゆかりの地までさまざまに掲載されており、忠臣蔵以外の港区の歴史も幅広く学べます。
とあるページに「三次」の文字を発見! 嬉しい!
ホームページにも掲載されていますので、ぜひみなさん「三次」を探してみてくださいね。(上部の出典元をクリックすると、東京都港区役所ホームページの該当ページへ遷移します。)
三次浅野藩
三次町は、広島藩 初代藩主浅野長晟が治めていました。寛永9年(1632)に長晟が亡くなると、子の光晟が広島藩を継ぐことに。しかし、光晟には長治という義兄がおり、この長治に新たに領地の一部を与えてできたのが三次藩です。三次藩初代藩主となった浅野長治は、周囲の川を天然の堀に見立てた総廓(そうぐるわ)構想による城下町をつくり、麻・紙・綿・漆・鉄などの殖産興業にも積極的に取り組みました。
三次藩の領地は、主に三次郡(旧三次市の一部、三和町の一部、君田町、布野町、作木町)と恵蘇郡(庄原市口和町、比和町、高野町、旧庄原市の一部)でした。
この領地以外に、離れた領地「飛領(とびりょう)」として、御調郡吉和、仁野村、世羅郡賀茂村、佐西郡草津浦、豊田郡忠海村、高田郡上甲立村がありました。豊田郡忠海村の忠海港(現在の竹原市忠海港)は、藩主の参勤交代や、年貢米・産物の輸送に重要な役割を果たし、御調郡吉和の塩田からとれる塩は、三次の人々に供給されました。
しかし、跡継ぎに恵まれず、享保5年(1720)わずか88年間で、三次藩は歴史を閉じることになりました。
阿久利姫(瑶泉院)
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の正室。
阿久利姫は、寛文9年(1669)三次藩主浅野長治の娘として三次に生まれました。母は長治の側室のお石の方。延宝4年(1676)7歳のときに赤穂藩主浅野内匠頭長矩に嫁ぐため、江戸へ向けて三次を出立します。このとき赤穂家家老大石内蔵助が三次に迎えにきて、鳳源寺(菩提寺)に枝垂れ桜を植えたと伝えられています。
14歳のとき、16歳の内匠頭と結婚。阿久利姫はしとやかで誉れ高い女性であったと言われていますが、子宝に恵まれないまま、元禄14年(1701)32歳のときに江戸城松の廊下で夫の刃傷事件が起こります。
その後、屋敷を三次浅野藩下屋敷(現在の氷川神社境内)へ移し、髪を落とし、名を寿昌院、後に瑤泉院の院号で余生を過ごしました。瑤泉院は、自らの化粧料である三次藩からの米千石を銀に代え、大石内蔵助に託し彼らの生活を支えたと言われています。
正徳4年(1714)45歳でその生涯を終え、内匠頭が眠る泉岳寺に葬られました。没日から10日間三次では鳴物高声停止令(娯楽などをつつしむことらしい)が出され、町ぐるみで喪に服したと伝えられています。
阿久利姫の幼少期からのお守り役であった落合与左衛門は、遺髪を三次に持ち帰り、三次で没しました。三次町にある鳳源寺に葬られ、今も遺髪塔の側でお守りしています。
三次と忠臣蔵って、こんなに深ーいつながりがあったんですね。歴史を知ると、いつものまち並みが少しロマンチックに見えてきます。
都内ゆかりの地をめぐるイベントを開催
ファンクラブリニューアル後、初めてのイベントとして「東京散歩~忠臣蔵と三次浅野藩ゆかりの地~」を開催します。赤穂義士の法被を着て、ガイドを聞きながらゆかりの地をめぐる旅。
イベント当日は赤穂義士討ち入りの日でもあるため、泉岳寺で冬の義士祭が開催される予定です。
集合日時:2024年12月14日(土)12:45
場 所:新橋柳通り口交差点前
内 容:新橋~泉岳寺までの約8,000歩を歩きます。(一部地下鉄)
参加費:1,000円(法被クリーニング、お土産代)
※イベント中の地下鉄乗車賃は実費です。
その他詳細は、三次市公式ホームページをご覧ください。