それが当然だと思っているけれど
家系図を書くべきであるような、ちょっと複雑な話です
ここでの「家」とは、建物としての「家」ではなく、家系としての「家」です。
私は「長男」です。
だからといって「家」に対する特別な意識はありませんでした。
単に実家との距離が近いから、何かあれば行く。
逆に「距離」が理由で、「家」に対する意識を持たざるを得なくなったように思います。
私には妹がいますが、かなり遠方に住んでいます。彼女の旦那さんは「長男」で、やはりそちらはそちらでいろいろあるわけです。
私の父親は「次男」です。
父の兄(私にとっては伯父)のご夫婦には子どもがいません。
その伯父が先日、亡くなりました。
伯母がひとり、残されました。
伯母にも兄妹がいますが高齢で遠くに住んでいるため、頻繁に往復するのはムリ。伯母にとっての甥っ子が1時間ほど離れた場所に住んでいますが、これまた頻繁に行き来することは体力が必要です。
伯父にも弟妹がいますがやはり相応に高齢。
甥っ子である私は、伯父の家に最も近い場所に住んでいます。クルマでも自転車でも30分以内で着く事が出来ます。
ほかの甥や姪は1時間以上離れた場所に住んでいます。
だから「血が近い」というより「距離が近い」という理由で何となく「責任がある」と思っているのです。
こういう環境にいるのは、たまたまです。
だけれども、「たまたま」にも何か理由があるような気がします。
「おまえ、今までたいした事してこなかっただろ? だから今こそ少しは人の為に働けよ」
と言われているような…
私にはいくつかの「決め事」があります。
そのひとつが、空き家になっている実家を、1ヶ月に一度訪問することです。
私の住まいと空き家、そして伯母の家は、直線で結ぶ事が出来ます。
これまた「偶然にも」と思うのです。
伯母は高齢であるがゆえ、「これで大丈夫なのかしら? 心ぼそいわ」と思う事もたくさんあります。
私自身の勉強でもあると思い、先日は年金の手続きに同行しました。
「老齢年金」から「遺族年金」への切り替えです。
必要書類もちゃんと揃えてあって、係員の方が親切に応対してくれたので何の問題もなく1時間ほどで終了しました。
結果的には一人でも全く問題はなかったのですが、それでも一緒にいた事に意味があったらしく、「いろいろありがとう」と言われました。
まだまだやる事はたくさんです。
これからは足腰も弱くなるでしょうから、もう少し大変になる可能性もあります。出来るだけフォローしてあげたいと私は思います。
でもそれを快く思わない人もいるのです。
結果として、いつのまにかやるべき事が増えていました。気づけば、やりたい事をする時間がなくなっていました。それは別に伯母のせいではありません。仕事もあります。
「今は、そういう時期」と割り切っていますが、「今」がどれだけ続くのか、予知能力を持っているわけでもないのでそれは見えません。