見出し画像

美しき日本の文化を日本人が消しているように思います

皆さまこんにちは。

コロナ禍の中、大相撲の本場所が終わりました。

45年以上前からずっと相撲を見続けている身として「これは由々しき事態である」と思うことがあり、あくまで超個人的な意見としてこちらの感想&意見を書くことにしました。

「正代×隠岐の海」で「またか」と

今場所の11日目、正代が勝ちを拾った取組。
前に攻めた隠岐の海の足はたしかに土俵を割っていましたが、正代は完全にひっくり返るところでした。
審判団による「物言い」がつきましたが、正代の勝ちと判断。これには驚きました。
ネットユーザーもこれには「物言い」をつける方が多かったように思います。

ネットユーザーの意見欄に「死に体(しにたい)」という表現がいくつか出てきました。
これは、もう反撃ができない状態を指していて、体が土俵についていなくても負けた状態でもあります。
45年以上相撲を見ていますが、この「死に体」は日本の文化なのではないかと感じます。
相撲では「かばい手」というものがあります。相手が完全にあおむけにひっくり返ろうとしたところで、上に覆いかぶさりそうな人が土俵に手をついて相手を「かばう」ことを言います。古くは北の富士×(先代)貴乃花戦でそれが見られました。また、若乃花と小錦の取り組みでも小錦がかばい手をしました。土俵に先に手をついたのは小錦でしたが、若乃花の体(たい)が死んでいると判断されました。「物言い」もつかなかったように記憶しています。

舞の海が武蔵丸に勝った一番でも、最後のところであおむけになった武蔵丸が舞の海を後方へ投げ飛ばしています。ひょっとすると舞の海のほうが手を先についているようにも見えますが、物言いは付かずに舞の海の勝ち。これも武蔵丸の体が死んでいる、と見たと思います。

ところがこの傾向がここ10年以上、おかしな方向へ行っていると思います。

それを感じたのは、朝青龍と琴の若の取り組みでした。

その粘り腰は脅威でしたが

投げに行った琴の若に対して朝青龍は琴の若のまわしにしがみつき、背筋の力で粘ります。朝青龍が背中から落ちる前に琴の若は手をつきます。

協議の結果、「取り直し」となりました。

私は、個人的に、この取り組みから「死に体」の文化が消えていったように思います。

私は韓国の相撲もちょっとだけ見たことがあります。韓国の勝ち負けは極めて明確で、「どちらが先に足裏以外を付いたか」です。これを知ったとき「かばい手をしたら負けということか」とガッカリしたと同時に、かばい手は日本独自の文化なのだと知りました。

やさしいと負ける

「かばい手」というのは、相手がケガをしないようにという本能的なやさしさです。琴の若がとっさに手をついたのは、朝青龍がケガをしないためという本能が働いたのだと思います。もしも貪欲に勝ちを求めるのであれば、琴の若は手などつかずに相手に乗りかかれば良かったのですが、これは体重差がなく行われる相撲において極めて危険なことです。そもそもそれは人道的な行為と思えません。

ビデオが導入されたことによって、攻めている側が負けてしまうという現象が増えてしまうのはある程度やむを得ないと思います。それは公平性を考えれば当然です。しかし、勝つためには危険行為をせざるを得ないという競技であってはならないと思います。

しかもこの判断を下している審判団が「元力士」であることも見逃せません。彼らは審判団であると同時に指導者でもあり、日本の相撲を継承する担い手なのです。

このまま放置していたら、「やさしさ」の文化が消えてしまう。そう思い、ひと言意見させていただきました。

#とは

この記事が参加している募集

至ってごく普通のサラリーマンのつもりですが少し変わった体験もしています。