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自分を愛するということ

今回はとてつもなく長くなってしまいました。誰かの暇のお供になれば幸いです。


つい先日、「ありのままの自分を愛すること」「そもそも自分を愛さなければならないのか?」ということについて深く考えました。

というのも、こちらの取材を受けたからです。



出演はしていません笑
貴重な機会をいただけたこと、感謝しています。


さて、みなさん、自分が好きですか?自分を愛せていますか?
私は答えに悩みます。

まず自分のことが好きか?
答えはいいえに近いと思います。
理由としては、まず一つ。出生時の障害があること(自己紹介で軽く触れています)。軽度ですがそれが自分にあることは心に大きな影を落としていますし、コンプレックスといえるものだと思います。今回は割愛しますが、他にも自分を好きになれない理由はたくさんあります。
それでも私は周囲の人に恵まれ、自分で言うのもあれですが愛されて育ったと思います。

周囲の人に愛されたという自覚があるのに、何故?

インタビューの際そう問われ、また考えました。
家族や友人、恋人は私のことを大事にしてくれているし、愛してくれているのも感じます。私もみんなのことを愛しています。でも、大好きな彼らが大切にしている「私」。その人を私は大事にできていないわけです。

視点を変えて、大切な友人が大事に思っているAさんがいるとします。極端な例ですがAさんが自分を自分で傷つけたり、自虐したり、自分を大切にしていなかったら……それに対して少なからず友人が悲しんでいたら、Aさんに対してムカつきませんか?私はムカつく。
そしてそれを、自分はしてしまっているのです。

大好きな人たちの大好きな人を傷つけ愛せていないんです。そんな自分が余計に嫌になって嫌いになってしまうという悪循環。
周りの人に大切にされている自覚があるからこそ、自分で自分を大切にできないことが苦しく、許せなくなってしまいます。

じゃあ、自分自身を愛せば良いじゃない。
それもまた難しい話で……

最近世間でよく叫ばれている「ありのままの自分を愛そう!」って風潮。みなさんどう思いますか?

私は半分賛成。半分反対です。少しずるいですね笑

ありのままの自分を愛すとは、私の解釈では、例えば人より小さい背とか、痩せぎみな体型とか、非力なところや、目の形や髪質、顔立ち、声や性格や考え方、適応障害であることも全部受け入れ、そのままを愛すということ。
そうはいってもそれって難しくないですか?だって背が小さいんだもん。声が嫌なんだもん。適応障害なんて……。もっと違う自分だったら、と思います。

人の特徴や個性が、粘土で作った球体だとして、そして自分の思う欠点やコンプレックスにつきそれがぽこっと凹むとして。人は、私は、歪な形をした球体だと思います。でも私はまんまるな球体が良いんです。まんまるな球体になりたいのに、「歪なままの貴方も素敵だよ」と言われても違和感を覚えます。そしてそこでまた「せっかく歪なままで良いと言ってくれたのに、そんな自分を受け入れられない。私はなんて酷いんだ」と落ち込んでしまう。それがまた一つの凹になるのです。

ありのままを愛す、それができたらどんなに素敵だろうと思います。この考え方自体は素敵だと思うし、これを目指す人を否定はしません(そもそもこの考え方って、自分の心のお守りにするものであって、他人に提示するものではないと思います)。
私はこんななので、この調子じゃ、ありのままの自分を愛すなんて無理だと思います。だって私の粘土は凹んでいる。障害なんてなければ良かったし、もっとぱっちりした目が良かった。「〜が良かった」がある限りどう頑張っても「ありのまま」は愛せないと思います。そしてどうも私には「ありのままの自分を愛す」考え方が合わない。だから、半分賛成、半分反対です。

そもそも「まんまるが良い」とさえ思わなければ、歪な形でもそれはそれで味と思えるのかもしれません。でも、「まんまる」を望まないのはなかなか難しいです。


じゃあ私は、自分の全てが憎くて嫌いなのでしょうか。
それもまた違うと思います。自分のことは好きじゃないながらも「悪くないな」と思えるところがあります。それを「好き」と仮定します。
例えば、肌が比較的綺麗なところ、思いやりを持とうと努力しているところ、何より人に恵まれているところ。自分個人は嫌いですが、大切な人と一緒にいるときの自分は好きです。
こんな具合に大なり小なり自分の好きなところがある。
私は歪な球体ですが、粘土で補っているところや、偶然色や見た目が綺麗になってるところがあります。
自分の欠点を補い認め工夫した結果、歪ながらも自分の球体が部分的にでも「悪くないな」と思えたら、それは一歩前進なのではないかと思います。

「そもそも自分を愛さなければならないのか」という問いも、半分賛成、半分反対。自分に対する評価「嫌い」は、数々の特徴に対する平均点だと思います。こういうところは好きだけど、こういうところは嫌い。こういうところも嫌い。それらを平均点にして「自分が嫌い」となる。ありのまま自分を丸ごと愛すのは無理でも、部分的に好きな点はあるということは、それらの数が増えて平均点が「好き」になれば良いのです。でもそれは、嫌いな部分があっても良いということ。だから私は、「そもそも自分を愛さなければならないのか」には半分賛成。半分反対です。嫌いでも良いと思います。いつかぼんやり自分を「好き」と思えれば。

ここまで長々と書いてきましたが、自分を好きになる、って難しいですよね。100年と長い人生において、一番身近で一番の味方である存在は自分自身だと思っています。そんな味方が自分を好きでいてくれたら心強いはず。だから、自分を好きになれたらどんなに良いかと思います。でも難しい。
そもそも好きという感情そのものの度合いや形、あり方は人の数だけあると思っています。だからそもそも、みんなが同じ好きになり方を目指して型に嵌め込むこと自体が間違っていると思います。
私の自分に対する「好き」の形は以上の通りです。

長くなりましたが、私の考え方に少しでも共感していただけたり、誰かの気づきのきっかけになったりしたなら嬉しいです。


ここまで読んでくださりありがとうございました。

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