フラクタルと辺上の世と、語らむとす一人と。
物心ついた時には既に、身の回りの事象を秤る癖が付いていた。常にある種の天秤に自身の行動基準を置く、そんな人間だった。
生じ得るリスク、望める成果、精神的な充足感、身体的疲弊、投資物、将来性・持続可能性の有無と程度、等々。総合的に判断し、及第点とそこそこの一般性を兼ねた結果に至るよう行動を起こす。彌(いや)に奇を衒うことはしない。評価が不確定になりすぎることはなるべく回避して、大衆の受けが良いであろう方向に身を委ねる。
そんな人間が、男子校などというかなりの異質に身を投じたことはなかなかに愉快なことだったと、今更ながら思う。いや、愉快ではあるが至極自然な流れであった。きっと疲れていた。平衡を繕うことに。その疲弊から無意識に逃げようとしていたのだろう。そうして、私は異質に流れ着いた。
少なくともこの国の教育社会においては天秤の"Edge"に位置する世界。そこから見れば些細な錘の変化でも、全体の調和を著しく乱し得る。すなわち「常識の通用しない」空間。
そんな世界を6年経て、そこから脱して、実際に自分が相応の異質に慣れていたことをしみじみと感じるのだ。良くも悪くも、一つの世界を選択して長らく居続けたことによる獲得と欠落を。でもきっと、これと同じようなことは如何なる世界を選択しても感じるものだ。特異であろうとなかろうと、誰だって実際はそれぞれの世界の中にある小さな天秤の上で、秤り秤られて生きている。何かを得て、何かを得ることなく生きている。
だからこそ人は、得ることのなかったものから目を逸らしたくなる。羨望、恐怖、憎悪、恥辱。そんな感情を抱くのが怖くて、度々親しみ慣れた故郷に還り、安堵する。そうして自分を正当化して生きていく。その生き方がどの程度罷り通るかは、人それぞれ異なる。
異質も異質の世界で生まれ育った少年は、彼にとって目新しく時に恐ろしい数多の光景から逃れ続けることが出来るか。否。世の大半が故郷でのあれこれと余りに乖離しているという事実を少なからず受容して、困難と闘っていかねばならない。それはもう人一倍、奮闘せねばならない。嘗て逃げ棄て置いた平衡とも、向き合わねばならない。
そうした奮闘の末に広がる光景は、さぞ綺麗なことだろう。