祈りを刻む「木彫」と誠実な人々の人情噺「井戸の茶碗」 (元教授、定年退職285日目)
先日、NHK 番組「美の壷」で「永遠に生きる 木彫(もくちょう)」という特集を拝見しました(下写真)。恥ずかしながら、「きぼり」と読むものと思い込んでいたため、その読み方から衝撃を受けました。実家には木彫りの熊の置物があった記憶がありますが、今回は仏像彫刻に焦点を当てた内容に惹かれ、視聴を決めました。
木彫の魅力再発見 ─仏像制作の神秘
京都には古くから木彫の文化が根付いています。番組でまず心を奪われたのは、仏像を彫る際に行われる厳かなる祈りの儀式があるという事実でした。施主である寺の住職をはじめ、親族や実際に作業にあたる仏師がそれぞれノミを入れ、木に思いを込めます。この神聖な儀式は、木彫が単なる制作作業を超えた精神的な営みであることを示していました。(下写真もどうぞ)
木材はその後、仏師の待つ工房へと運ばれます(下写真)。番組に登場した仏師、松久佳遊さんは 30 年以上にわたり仏像を彫り続けてきたベテランで、「木の命を仏様の中へ移していくような不思議な感覚を抱いている」と語っていました。また、「仏像は人型をベースにしながらも、人ではない姿を表現することが重要」とも述べ、その言葉が深く印象に残りました。番組内で紹介された代表作「花かんのん」は、花を持った優しさを感じる表情ながら、首をわずかに傾けてうつむき気味の、物憂げな独創的な姿が特徴です(タイトル写真、下写真:注1)。これまでこのような仏様は見たことがありませんでしたが、祈りを捧げたくなる気持ちが高まりました。
番組では、仏像の制作技法の歴史についても触れられていました。奈良時代の仏像は一本の檜から彫り出される「一木造」が主流でしたが、平安時代になると「寄木造」という技法が広まりました。平等院鳳凰堂の大きな阿弥陀如来像などがこの技法によって制作されました。さらに、仏像の内部をくり抜く技術が発展した背景にも興味をそそられました。これは、木材の乾燥やひび割れを防ぎ、長持ちさせるための工夫でしたが、それだけでなく、くり抜かれた空間が、僧侶が唱えるお経や声明(しょうみょう)などの音を反響させる役割も担っていたというのです。技術的工夫と宗教的意味合いが込められていた事実に感銘を受けました。(下写真もどうぞ)
木彫から落語へ:名人たちが演じる「井戸の茶碗」を聴いて
話が変わりますが、落語の世界には「井戸の茶碗」という人情噺があります。この噺の中に「中をくり抜いた仏像」が登場します。あらすじは、浪人武士の千代田卜斎が生活に困り、屑屋の清兵衛に家宝の仏像を売ります。その後、若武士の高木作久左衛門がその仏像を購入し、くり抜かれた中から50両の大金を見つけるところから話が展開します。この噺の魅力は、登場人物が皆誠実で善良な人物ばかりで(若干偏屈ではありますが)、悪者が出てこないという点にあります。最後は、聴く人の心を清らかにするような結末になります。
私は、五代目古今亭志ん生師匠と柳家喬太郎師匠が演じるこの噺が大好きです。志ん生師匠は、明治後期から昭和期にかけて活躍した、戦後を代表する落語家の一人です(古今亭志ん朝師匠の父であり、女優の池波志乃さんの祖父にあたります)。残念ながら私はオンタイムで志ん生師匠の落語は聴くことは叶いませんでしたが、幸いにも音源が残されていて、それを聴いたときには衝撃を受けました。飄々とした語り口の中に、登場人物たちの心情を巧みに織り込まれており、半世紀以上前の落語にもかかわらず、全く古さを感じさせない面白さがありました(下写真)。
一方、柳家喬太郎師匠は現代を代表する落語家で、以前 note の記事(5/25)で紹介させていただいたほど敬愛する落語家さんです。喬太郎師匠の「井戸の茶碗」は何度か生で聴かせてもらいましたが(下写真)、志ん生師匠のものとは異なった魅力を持っており、まるで別の噺かと思うほど明るく、特に、若武士の高木作久左衛門の人物描写は秀逸で、聴く者の心を掴んで離しません。さらに、喬太郎師匠は「歌う井戸の茶碗」という、オペラ風のアレンジを加えた演目も持っているとのことで、機会があればぜひ拝聴したいと思っています。
この「井戸の茶碗」という噺は、金銭的なやりとりが中心であるにもかかわらず、私たちに物の価値観について考えさせる物語です。今回は、途中から木彫の話から大きく逸れてしまいましたが、仏像の内部をくり抜くという話からこの噺を思い出し、私にとっては嬉しい出来事でした。これを機に、久しぶりに志ん生、志ん朝親子の落語をじっくりと聴き直してみようと思います。
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注1:NHK番組「美の壷:永遠に生きる 木彫」より