塩が作るミクロの世界: シヤチハタ印鑑の技術革新 (元教授、定年退職190日目)
定年退職の日、私は教授室から多くの印鑑を持ち帰りました。日々使用していたものから、お土産にもらった蔵書印まで、10個以上ありました。自分の名前はもちろん、「領収書在中」「至急」「Air Mail」、住所を隠すためのものまで、それぞれの印鑑に思い出が詰まっています。役目を終えた安堵感とともに、一抹の寂しさも感じています。その中でも印象に残っているのは、書類修正に使った小さな修正印で「見たことがなく、可愛い!」と初めて見た学生たちが喜んでいたのが思い出されます。また、海外からの訪問者にシヤチハタ印鑑の仕組みを尋ねられてわからず、「ジャパニーズ・スペシャル・テクノロジー!」と誤魔化したこともありました(苦笑)。
しかし、考えてみれば、あの何気ない印鑑の仕組みをきちんと理解している人は、意外と少ないのではないでしょうか。先日、NHK 大阪が制作した「探検ファクトリー:元気な工場の秘密を探る」の特集「知らなかった!?インクが出てくる仕組み ハンコ工場」の放送で、その謎が解き明かされました。漫才コンビ・中川家(剛、礼二)とすっちーの3人が司会で、笑いが2割、情報が8割という内容の番組でした(下写真)。
NHKなので企業名は伏せられていましたが、紹介されていたのは間違いなく「シヤチハタ(株)」です。押すだけで鮮明な印影が得られる同社の印鑑は、業界でトップシェアを誇り、1968年の発売開始以来、累計出荷数1億9千万本に上るとのことです(下写真)。番組では、その印面の製造工程に焦点を当て、普段目にすることのない舞台裏が明らかになりました。
司会の3人はシヤチハタの工場の中に入り、印面の製造工程が詳しく紹介されました。印面はゴムを原料としており、それを順に加工していきます。まず、大きな硬いゴムにカーボンや薬品を混ぜ込み、ローラーを通して均一にします。カーボンはゴムの強度と弾力性を増すため、薬品は劣化防止のために使われます。ここまでは、一般的なゴム工場と変わりません(下写真、上部)。
重要なポイントは、そのあと「塩」を驚くほど大量に混ぜ込むことです。粒の大きさの異なる塩を使用してそれぞれ2種類のシートに加工し、それらを貼り合わせます。これを80℃以上のお湯に17時間漬けて、塩を溶かし出し、無数のミクロの穴を形成させます(上写真、下部)。番組で水を含んだシートを曲げてみると、大きな塩を使用した方の面からは大きな粒の水滴が、逆の面からは小さな粒の水滴が現れます(前者がインク側で、後者が印面側になります。下写真参照)。木粉やデンプン、砂糖などでも試した結果、塩が最もこの工程に適していると判明したそうです。その後、レーザー加工で印影を作り、枠をはめ、バネやインクなどを機械でセットして(タイトル写真:注1)、私たちがよく知るシヤチハタ印鑑が完成します。
シヤチハタ(株)は、空気中の水分を取り込む「乾かないスタンプ台」の製造から始まり、ビジネス用スタンプ、個人用印鑑へと時代のニーズに合わせて進化してきました。近年では、コロナ禍による「脱ハンコ」の流れを受け、電子印鑑システムや独創的なアイデア商品も次々と生み出しています。その中でも特に興味深かったのは、子供の手洗い練習用スタンプで、「印影が消えるまで手を洗いなさい」と指導するそうです(下写真)。普通は印影を残しますが、この場合は印影を消すことを利用していて、逆転の発想で面白いです。
このように技術革新と文化の変遷の中で、印鑑の役割も変化を続けています。しかし、その根底にある創意工夫は、日本のものづくりの真髄と言えるでしょう。
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注1:NHK大阪放送局「探検ファクトリー:元気な工場の秘密を探る」よりhttps://www.nhk.jp/p/ts/Y5G7RL6WX3/episode/te/RPRVY6Z6LP/
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