美術修復家の静かな情熱: ボストン美術館と東京国立近代美術館の現場から (元教授、定年退職218日目)
約6年前、学会参加のためボストンを訪れた際、久しぶりにボストン美術館に足を運ぶ機会に恵まれました。私にとっては3度目の訪問でしたが(来日したボストン美術館展を含めるとさらに数回)、何度訪れても新鮮な感動を覚えます。(タイトル写真、下写真)
ボストン美術館で出会った修復の世界
その日は数時間しか滞在できませんでしたが、常設展の裏手に特別な展示スペース(作業場でしょうか?)を見つけました。そこでは、美術品の修復作業が一般公開されていたのです。現場では、「静かに!」という注意書きのもと、修復の専門家が絵画(パネル)のクリーニングの最終段階に取り組んでいました。私が見たときには、その専門家は顕微鏡を覗き込みながら、メスのような器具を用いて慎重にクリーニングを行っていました。このような貴重な作業現場を見るのは初めてで、思わずシャッターを切りました。(下写真をどうぞ)
東京国立近代美術館の現場から: オリジナルを守る美術品修復の技術
最近、NHKの「ザ・バックヤード:知の迷宮の裏側探訪」で東京国立近代美術館の特集が放送されました。番組では、油絵の修復に関する具体的な手順や材料の選定基準などが詳細に説明されていました。ボストン美術館での修復現場ではそのような説明はほとんどなかったため、今回の視聴をとても楽しみにしていました。
東京国立近代美術館の展示ルームの裏手には「補修室」という部屋があり、作品のジャンルや状態に応じて外部の専門家に修復が依頼されています。番組で解説を担当した油絵修復家の土師(はぜ)さんは、オリジナルを尊重するために「最小限の介入」を基本方針としているそうです。具体的には、1940年の油絵を例に、絵のクリーニングと剥落部分の修復の二つの工程が紹介されました。
1. 絵のクリーニング
土師さんは、汚れだけを除去するための洗浄剤として、水溶性のゲルを調合します。それを絵に丁寧に塗っていき、汚れが浮き出ると特製の綿棒で慎重に取り除きます。このプロセスの結果、オリジナルとの差は一目瞭然でした(下写真)。洗浄剤の選定は極めて重要で、作品の素材に応じて洗浄剤を個別に調合する必要があるとのことです。
2. 剥落した部分の修復
長い年月によって絵の具が剥がれ、キャンバスの下地が露出した部分を修復します。修復におけるもう一つの原則は、「可逆性を担保した処置を行う」というもので、後に修正が必要になった場合に元に戻せることが重要となります。絵画の修復を同じ素材で行ってしまうと、修復箇所に問題が生じた場合、その部分だけを取り除くのが難しくなるからです。
まず、水溶性の充填剤で剥落した部分の凹凸を埋め、表面をなだらかに整えます。次に、水彩絵の具を使って、周囲に絵の具を付けないよう注意深く、なじむように徐々に色を塗っていきます(下写真)。
番組では、この修復がリバーシブル(可逆)であることを実験で示していました。修復箇所を水で濡らすと、まず塗った絵の具の色が落ち、その後充填剤も除去され元の状態に戻ります(下写真)。土師さんは、作品の修復はいつでもやり直せるよう、使う素材から方法まで、綿密に選び抜くことが大切だと語っていました。そして、過去に描かれた作品を、現在だけでなく未来にわたって良い状態で残し、50年後、100年後の未来へと継承していきたいと締めくくりました。
このように、美術館のバックヤードでは、静かでありながら情熱的な取り組みが日々行われています。なお、より困難な条件下での修復を扱った「ゴッドハンド:流転の秘宝を復元せよ」というNHKの番組も今春放送されていました。機会があれば、こちらもご紹介したいと思います。
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注1:NHK 番組「ザ・バックヤード:知の迷宮の裏側探訪」より